出エジプト

出エジプト 40:34-38

 幕屋の上には、常に雲か火の柱が立っている。それが神の臨在を表す印だった。その瞬間は、モーセ自身ですら幕屋に入れないほどの圧倒的な存在感が示されたとある。この場所は、神を恐れ、神と共にあることを喜び祝う、そういう場であった。やがて人々は、この場所を、自らの便宜のために利用するようになってしまうのだが。神は変わらずにいてくださるのに、人々は恐れも親しみも、どちらも失っていく。いやいや、まだこの時は、神の圧倒的な臨在に、人々は姿勢を正される思いであったのだ。

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出エジプト 40:16-33

 第二年目の最初の日であることに注目したい。エジプトを出て一年が経った。激動の日々であった。そしてまた、イスラエルの民が神に激しく背いたこともあった。だが、神は今ここに、民と共に新たな日々を歩むことを宣言するようにして、この日、二年目の最初の日、幕屋を始動させている。民も、モーセも、神ご自身も、ワクワクしながらの始まり、再出発であろう。この年の内に、約束の地に入るはずだった。そのすべてを壊してしまったのは、またしても民自身であるのだ。でも今は、この期待感を味わいたい。

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出エジプト 40:9-15

 幕屋を聖別していくことが語られている。立派なものが造られたから、それで聖なるものというわけではない。金銀をちりばめたから尊いのでもない。それぞれのものを、「これは神のものだ」と明確に認定していくことによって、初めてそれらは聖なるものとされる。神のものとする。私たちの身近なところでいえば、持ち物に名前を書く。市販の、どこにでもあるものだったとしても、そこに名前が書き込まれた瞬間、それは「私だけのもの」となる。「聖」とはつまり「神のもの」という意味だ。このことが、罪からの赦しや、聖徒と呼ばれることの意味にもつながっていく。

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出エジプト 40:1-8

 第一の月の一日、まさに始まりの時に、幕屋は建てられる。会見の幕屋、神と向き合い、神と共に歩むためのもの。これを建てることで一年が始まっていくというのは、そういう神との関わりをこそ、これからの日々の中心に据え、イスラエル民族の柱としていくということだ。日本にも、一年の計は元旦にあり、という言葉があるけれど、物事を始める時、神と共にスタートさせていくのだということを、礼拝や、祈りや、何かの行動によって確認していくのは、とても有意義なことなのだ。

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出エジプト 39:32-43

 主が命じられたとおりにした、ということが、何度も繰り返し語られている。ちょっとしつこいと思われるかもしれないほどに、でも聖書は、この点を強調し続けている。だから私たちとしても、このことをよくよく心にとめて、自分自身にも問いかけたい。主が命じられたとおりにしているか、と。そのためには、まずは主が何をどのように語り、命じているのかを知らなければ何も始まらない。神の言葉を曲解する時、物事は大混乱に陥るのだ。

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出エジプト 39:1-31

 祭司という存在は、後になると大勢いて、神殿での役割がなかなか回ってこないくらいにもなるが(ザカリヤのように)、この時代には大祭司たるアロンが注目されるだけで、他はその息子たち程度だから、まあ補助的な感覚だろうか。ダビデの時代にも、一つの町が襲撃されると祭司絶滅の危機に瀕するくらいだから、ごく少数だったろう。民の礼拝を支えるために仕える彼らの労は、かなりのものだったと思われる。その装束は特別あつらえだが、それだけの希少価値があったと言えそうだ。

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出エジプト 38:24-31

 当時と金銀の価値が変わっているので、単純に比較しても意味はないのだが、使われた金銀の重さを今の相場に当てはめると、金は46億、銀は3億6千万くらい。数字が大きすぎて、計算を間違えているかもしれないが。とてつもない資金が投じられたのだと分かるだろう(これは使われた金銀の価値だけだ)。そういう神々しい場所に、しかし民は親しく出入りできたのであり、神との関わりを象徴するのにはなかなか良いものだと思う。

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出エジプト 38:21-23

 ベツァルエルとオホリアブという二人が、会見の幕屋造営には多大な貢献をしている。おそらく彼らは、民の中でもよく知られた才能の持ち主だったのだろう。その彼らが、自分の持てる能力を精一杯発揮して、この建設に取り組んでいる姿は、実に清々しい。彼らほどの才能はなくても、それぞれの存在をもって、神のなされる良き業に、私たちも関わりたいものだ。

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出エジプト 38:1-20

 引き続き、神の指示通りに、ということであるが、もともとの指示は金の子牛事件以前に与えられたものであることを思う。だが神は、あれだけの事件を経ても、何も変わらずに同じ指示のもとで造らせている。事情が違ってきたのだから、と思いたくなるのだが、もともとこれは神と向かい合うための場。神が用意されるところは、人の罪によって簡単に崩されてしまったりはしないのだ。そう、どれほど重い人の罪も、キリストの贖いを壊すことはないように。

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出エジプト 37:1-29

 神がモーセに指し示されたとおりのものが造られていっている。それぞれの仕様について、改めて取り上げても繰り返しになるだけだが、この、神の指し示されたとおりに、という点に注目したい。諸事情によって、完成品が計画とは違うものになることはいくらでもある。決して悪意ではなく、誠実な思いで取り組んだ結果としてそうなることもある。でもここでは、神の指図に忠実であることが重視されている。人は良かれと思っていろいろするが、少なくとも神との関わりでは、御心のままに、であることが大事なのだ。

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