ガラテヤ

ガラテヤ 6:18

 よくある祝福の文言だけれど、ガラテヤ書の締めとしては、「キリストの恵み」という言葉が力強く響いてくる。あなたの人生が成功しますように、でもなく、素敵な日々がありますように、でもなく、キリストの恵みの中を歩み続けられるようにとの祈り、それは混乱したガラテヤの人々、何度も繰り返し混乱し続けているその後のクリスチャンたちのための、パウロの切実な願いである。(ガラテヤ書、終わり)

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ガラテヤ 6:15

 大事なのは新しい創造、という言葉も、新たな展開を物語っている。もはや割礼の有無で論争している場合ではない。神の救いは信じる私たち自身に、そしてこの世界との関わりにおいても、新境地を開いている。世界の光、塩と呼ばれ、私の証人となると告げられていることも、それにつながる。当時のユダヤ人は自分らが神の幸いを世界に届けるなど考えもしなかったけれど、ここに新たな使命と道が明らかにされていったのだ。それが私たちの前にある。

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ガラテヤ 6:14

 十字架につけられ、という言い回しについて。十字架につけられたら死ぬことになる。つまり、それまでの関係が決着し、そこから新しい関係が生み出されていくことになる。通常は、それこそ死なない限りはそんな大転換は起こらないのだけれど、キリストの十字架、そして救いによって事態は全く新しい局面に達した。ちなみに十字架と言っても、断絶という趣旨で受け止めると、キリストの十字架の意味合いと食い違ってくる。パウロは世界と断絶する気はない。神にある新しい関係が始まったのだ。

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ガラテヤ 6:12-16

 迫害を受けたくないから、という表現から、割礼を強制し、行いと成果を主張していたのは、ユダヤ人社会の人々ではなくて、ユダヤ人クリスチャンの一部であったことがわかる。むろん、福音は世の中との協調性を頭から否定しているわけではない。でも、何を優先して大事にするのか、という点で、彼らは間違っていた。十字架のほかに誇りなしとは、自分たちの内側には何も誇り得るものはないと自覚することとつながっている。その自覚を失ったら、もはや救いを求めないだろうし、神の呼びかけにも関心を示さず、すべてを投げ捨ててしまいかねない。この食い違いは単なる文化衝突ですらない。真剣なる課題なのだ。

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ガラテヤ 6:11,17

 パウロは持病を持っていたと言われ、健康状態は必ずしも良くなかった。とりわけそれは、過酷な伝道旅行と、背負うことになった多くの課題、諸教会の混乱などへの心の痛みなどに影響されていた。パウロはそういう自分の状態を率直に語っている。泣き言ではなくて、人々が抱えている課題がどれほど深刻で、必死にならざるを得ないのかを語るためだ。日本人は、この類のことを自ら口にするのは恥とする傾向があるので、たぶん、本人は何も語らないかもしれない。だとしたらなおさら周りの者たちが、自分たちのために心を痛めてくれている人々のその厳しさに、ちゃんと目を向けていくべきだろう。その人のためではない。自分自身の抱える深刻さをしっかりと理解するためにこそ。

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ガラテヤ 6:7-9

 例によってパウロは半ば脱線的に話がふくらませるのだが、大事な話でもある。私たちが持っているものは神から与えられたものだ。とすれば、それは御心に沿ってこそ用いられていくはずのもの。もちろん自分の必要のためでもあるけれど、周りの人たちの必要を満たす業もまた、神が私たちに託されたことだ。それを無視して、ただ抱え込んでしまうのだとしたら、それは与えられたはずの恵みが害悪となる危険すら招きかねない。自分自身のためにも積極的に他の人のために尽くしていくことのほうが、より健康的な生き方につながるのだ。それは時に苦労があり、忍耐も必要だけれど、あきらめるなと語られている。なお、ユダヤ人が神の祝福を自分たちだけのものとして抱え込んでいたことの課題も、この言葉の背後に見え隠れするように思う。

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ガラテヤ 6:6

 教職者がその働きから収入を得ることについて聖書が言及するのは、当時のローマ社会において、宗教的な事柄はそれぞれの仕事の片手間でこなす部類のものとして扱われていたことが関係すると思われる。たとえばローマ皇帝は国を代表する祭司としての資格も兼ね備えることになっていた。それはつまり、宗教的な事柄はこの世界の雑事の一つに過ぎないという理解でもある。だが、旧約の律法が祭司に対して神殿での働きから収入を得ることを定めていたように、神の意図はむしろ、この働きは社会の趨勢に押し流されずに毅然として立ち続けるものとすることにあった。エリの息子のように間違えた者もいたけれど、この定めは特権的な利得を認めるものではなくて、その働きをまっすぐになしていくためのものであったのだ。

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ガラテヤ 6:6-10

 7-10節は例によって少々話が飛躍するが、過ちに陥った人のために労を担い合うという話に続いて、そういう問題を抱えている人だけでなく、常に互いに支え合うべきだという話である。不足を補い合う話だから、互いに同じものを交換するわけではない。自分が持っているもので相手の不足を補い、自分の不足は他の人に補ってもらう。そういう関わりとなる。だから、霊的に教えられるということと、物質的に提供するということが結びつけられている。書簡の他の箇所では、教職者がその働きに対して報酬を得ることも教えられているが、ここはその点に注目しているというよりは、分かち合う姿勢を語る上での一例として取り上げられているだけだろう。10節の勧めについて、現代の私たちにふさわしいあり方をもっと追い求めるべきだろう。

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ガラテヤ 6:1-5

 ユダヤ人の態度は、間違っている者は糾弾し、断罪し、失格とすることだった。その人の努力と成果が神からの報酬を決めるのだとしたら、こういう態度になるのもわからないではない。だが、私たちが手にするのは神からの恵み、もらえるはずのない者に与えられる祝福だ。とすれば、問題ある人への態度は大きく変化する。ここに記されているように、支え、励まし、そしてもちろんそのままで良いはずがないので、柔和な心で正すのだ。そこには忍耐が必要になる。苦労するのは正しいことを知っている側の者、なのだ。神ご自身がそのようにして私たちを救ってくださったのだから、私たちに開かれている道もまた、同じものとなる。
(一日、落としてしまいました)

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ガラテヤ 5:25-26

 昨日も書いたように、御霊に導かれてこそ、である。そうやって御霊の助けこそが自分の歩みを成り立たせてくださっているのだと知るならば、戒律を守れる自分、守れない異邦人、などという区別、差別はありえないことであって、まさにそれは虚栄、何の意味もない誇り高ぶり、自分も相手も傷つけて、せっかくの祝福をだめにしてしまうものとなる。良い行いをすることそのものは大事なことなのに、それが他者との比較に利用される時、激しく破壊するものとなってしまうのだ。

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