レビ記

レビ 27:30-34

 神のものは神のものとし、それに自分の勝手な思いで手を出さないこと、と定められている。それらは神のもの、だからだ。もしもそこで人々が、自分は神を養ってあげているのだ、みたいなふうに考え出せば、神に差し出したものを取り替えたり、取りやめにしたりもいくらでも可能になる。だが、それらはすでに神のもの。私たちのものではなくなっていることを、しっかりとわきまえておきたい。これらの規定は、神をないがしろにしないこと、そしてまた自らの所有権について正しい感覚、理解を身につけるためにも大事な訓練となる。

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レビ 27:28-29

 当時は、聖絶と言って、戦争などで戦利品にすることが可能なものについて、人が自分の所有物にしてはならないと定められていたものがあった。自分のものにしてはいけないのだから、当然、売買もありえるはずがない。そして、一連の話から言えば、それらを神に捧げます、という話も成り立たない。もともと自分のものではないのだから。サウル王がした行為が厳しく責められたのは、こんなところに関連する。

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レビ 27:26-27

 初子はもともとからして神のもの、であるからして、それを神に捧げるということはあり得ない。それでは捧げ物ではなく、強奪になってしまう。初子については、すでに規定がある。神に捧げ物をするつもりならば、自分の所有物の中からこそ、なされるべきなのだ。現代に置き換えるなら、かつて行った捧げ物を、後々まで何度も「私はこんなにした」と言うことか。他の人にではなく自分自身に対してのものであっても。それはただの自己満足に過ぎない。良きことをしたという事柄については、過ぎたことはしまい込んで、先に向かって進んだ方が良い。

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レビ 27:21-25

 評価はヨベルで計算されるが、土地そのものはヨベルまでは買い戻しが可能、ヨベルが来れば祭司のものになって買い戻しは不可能、となる。24節の規定は、もともとの所有者でない人が神に捧げた場合には、ヨベルには最初の所有者に戻されるということだ。永遠に捧げるかどうかを決めるのは、もともとの所有者自身であるべきだからだ。このあたりも、なかなかに注意深く定められている。

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レビ 27:16-25

 ヨベルの年との兼ね合いで、神への捧げ物のことが語られている。ヨベルには人の手に渡った土地が元の持ち主に返るというのが一般原則だったからだ。それで、神への捧げ物についても、ヨベルまでの年数によって、その捧げ物の意味合いが変わってくる。このあたりをごまかして、残り一年なのに膨大な土地を捧げました、みたいな態度を取る可能性が懸念されていたからか。まあ、金持ちが大金を献金している姿についてイエスが、それは彼らにとっては些細なことだと指摘なさったことにもつながる。

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レビ 27:13-15

 神に捧げるということは、その場の感情ではなく、ちゃんと考えて、よしと心を決めてするのが良い。それが神に対する真剣な姿勢でもある。そういうきちんとした態度での捧げ物であることを前提にすると、それでもなお取り消しにする必要が生じたという場合は、ちゃんと買い戻せ、ということになっていた。1/5はなかなかに大きいけれど、いわばそれは彼自身の神に対する真剣さ、彼がなした捧げ物が誠実なものであったことを評価する意味合いの数値でもある。このあたりの規定、現代にはそのまま適用はされないけれど、その精神、価値感覚は受け止めておきたい。

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レビ 27:9-13

 誰かに誕生日のプレゼントをした後で、「やっぱりやめた、返して」とやるのは実に失礼なことだ。そんな思いを抱く人ですら、やれる可能性があるのは、自分よりも立場の弱い相手に対してだけのはずだ。つまり、力関係を利用して相手をおとしめていることになる。ではなぜ神に対して、いったん捧げたものを取り戻したりすることがあり得るのか。それは神を小馬鹿にした態度と同様と言える。もちろん、捧げた後で何かの必要が生ずることはある。それなら、友人に頼むようにして、「申し訳ないけれど、いったん返してくれ、存亡の危機なんだ」と願えばいい。友は喜んで返してくれるし、追加して支援してくれるだろうから。

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レビ 27:1-8

 お金に換算された評価が年齢や性別で違っているけれど、これは差別とか不公平という話ではない。彼らはその評価額に応じた負担をしなければならないのだから、むしろ、それぞれの財力に見合うものにして真の意味での公平さを保つための規定だ。物事、単に「同一」にすれば平等が保たれるのではなく、良き意味での配慮や差異は必要になる。神の前に立つ者は、そのあたりも配慮せねばならない。

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レビ 26:44-46

 厳しい宣告がなされているのだが、その終わりのところで神は、思いも寄らない言葉を告げている。そう、人が自らの罪のゆえに苦しみ、滅び去ろうとしているそのときに、しかし神は約束を思い起こし、人々を助け出すというのである。神との契約を「従えば祝福、逆らえば罰」というふうに受け止めることが多いけれど、それは第一段階に過ぎない。神が人に対して持ってくださっている思いは、切に慕い求めるというものであるからこそ、壊滅したユダヤであってもなお、回復の道が用意されていたことを私たちは知っている。「ああもうだめだ」ではなく「神よ哀れんでください」と叫びたい。

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レビ 26:34-43

 イスラエルが追い払われた地が、安息を取り戻すのだということが語られている。罪に生きる人々がこの世界をどれほど破壊しているかということを思わせられる。人の存在が問題なのではない。人は本来、この世界の良き管理者として、その存在によってより良いものを生み出すはずのものである。だが、自分のことしか考えず、神を恐れることをやめて生きる時、この世界は崩されていく。今日、人類の力は自然界を大きく上回るようになって、その暴挙の影響がますます激しくなっていることを、私たちは思い知らされているはずだ。

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