第一コリント

第一コリント 16:21-24

 パウロは健康的な課題を抱えていたようだ。でも彼の心はコリントの人々を案ずるばかりである。その心の源は、主を思うからこそだ。主を慕い求めるこのような言葉は、詩篇27:14などの切なる訴えと同じ心と言うことができるだろう。この22節の「主よ、来て下さい」は、再臨待望という意味合いで理解されることもあるが、もっと広い意味合いで、主が私たちの歩みに深く関わって下さることを願い求める祈りとして受け止める方が、なお意義あるものとなるだろう。それことが、混乱に陥っていたコリント教会の必要なことであるのだ。

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第一コリント 16:19-20

 人は一人で生きているのではないように、信仰もまた、そして教会の歩みもまた、自分たちだけのものではない。そこには常に、自分たちのために祈ってくれている他の教会があることを忘れてはならないのだ。もともと、そこに福音が届けられたことそのものが、どこかの教会の愛の結果であり、犠牲の中で与えられた恵みでもある。そういう関わりを忘れず、ありがたく受け、そしてまた他のために労していこうとするならば、そこにはきっと健康的な信仰が培われていくだろう。コリント教会に対してパウロが何度も他の教会のことを話題にしているのも、彼ら自身のことを思うからこそ、である。

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第一コリント 16:15-18

 コリント教会内の人たちであろう。彼らは混乱するコリント教会の中で、必死に取り組んできた人々なのだと思われる。厳しい状況の中で、なお純粋な信仰を持ち続けることの重みを思うと、彼らは深く賞賛されるべき人たちだ。信仰の苦闘を続けている人々のために祈り、何とかして支えていこうとすることは、主の御心を大切にして生きていく姿と重なる。

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第一コリント 16:13-14

 男らしく、と言っているが、何も女性を否定しているわけではない。単なる言い回しであり、様々な混乱の中でも意気消沈して倒れてしまわずに、信仰に立ち続けるようにとの呼びかけだ。最初はどこの誰だか、というふうに怪しまれていたとしても、なお、信仰に毅然として立ち、神の御心をこそ歩み続けるところに、信仰の極意とでも言おうか、そういう事柄は込められている。

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第一コリント 16:12

 コリント教会に影響力を持つアポロがこの問題に取り組んでくれることは、パウロからすれば是非とも、であった。でもアポロはそうは動かない。彼には別の意図があり、計画があるからだ。主の業だと確信することであってもなお、他の人は別のことに取り組むことがある。それは決して御心に反しているのではなく、それぞれの人にそれぞれの業、であるのだ。その多彩さを否定してしまったら、自らの業をも閉ざしてしまう偏狭となることを、忘れてはいけない。

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第一コリント 16:10-11

 これは手紙だから仲間たちの音信も伝えている。コリント教会の問題にパウロと一緒になって取り組んでいるテモテについては、予想される反発を案じているのだが、強面ではなく親しい仲間として受け止めるようにとの趣旨で呼びかけている。初めからけんか腰では、どうなるものでもない。むろんごまかしや妥協は想定されていない。でも、目指すのは相手の打破ではなく、真に良きものを届けることにあるのだからして、パウロの基本姿勢は(表面的にはどうであれ)人々を思いやる心である。

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第一コリント 16:8-9

 ここにある「留まり続ける理由」は、まさに現実なのだと思う。自分の活躍が必要とされている場があることは、その裏返しとして反対も強くなるということである。まあ、パウロの場合は、皆が賛成してくれるようになったら、自分の役割は終わったと次のところに行くかもしれないが。いずれにしても、回りの状況が良くても悪くても、そこに自らのなすべきことがあるならば精一杯なす、ということは大事な姿勢であろう。第二テモテ4:2もそう語っている。

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第一コリント 16:6-7

 この意味は、ちょっと立ち寄るだけではなくゆっくり滞在したい、ということだ。コリント教会の問題にパウロは激しく怒っていたが、だからといって彼らを嫌っていたのではなく、心から案じていたし、大切に思っていたのだ。共にいたい、という願いを抱くことは、互いの関係の親密さを示すものとして、聖書には繰り返し出てくる。神ご自身も、私たちと共にいたいとしてくださっているのだから。

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第一コリント 16:3-9

 この献金は、エルサレム教会のため、であった。上納金ではない、もちろん。エルサレムのクリスチャンたちは貧しかったので、ギリシャの人々は彼らを支えようとしたのだ。パウロはそういう献金を運ぶ役割を引き受けていた。彼の伝道旅行は、この役割を果たすために行程が決められていた面もある。もしかすると、お金を運ぶことよりも伝道のほうが大事、と憤慨する人があるかもしれないが、パウロはそうは考えていない。そうやって人々を支える業は、新たな町に福音を届けることと同じように意義のある、大切な業だと理解していた。使徒6章で、7人が選ばれたのも同様である。

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第一コリント 16:1-3

 短い箇所だが、献金の基本が指し示されている。いつも週の初めの日に、であるから、定期的に、である。蓄えておく、のだから、必要が生じたから慌てて、ではなくて、日常の暮らしの中で、である。そして、収入に応じて、であるので、それぞれが神から与えられているものに応じて。厳密な比率とまでは言わないが、貧しい人が無理をしてまでというのは好ましくないし(皆無ではあるまいが)、豊かな人は豊かに捧げることが当然、ということになる。まあ、ごく当たり前の感覚である。が、私たちがまっとうな暮らし方をしたいのであれば、こういう当たり前の指針にちゃんと応じていくのが良い。

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