民数記

申命記 10:20-22

 そうなのだ。イスラエル一族がエジプトに来た時は、たった70人である。だが、神がアブラハムに約束されたとおりに、この民は増え広がった。今の自分たちを見るならば、神の約束は真実なのだと知り得るはずである。信仰のこともそうだ。最初の弟子などほんの一握り、アジアの片隅の人々だった。今、クリスチャンは世界中にいる。まだ過半数にもなっていないけれど、でも、何十億もの人々がキリストを信じているのだ。その重みを、神の御業のすごみを、心に刻んでおきたい。

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民数記 36:10-13

 話としては、昨日のことと同じであるのだが、もしこれらの相続地が、その人自身に帰属するものだったら、結婚に伴い他部族に移行するのも当然となるわけだが、イスラエルの相続地はもともと神に属するものであり、神から託されているもの。その理念があるからこそヨベルの年も成り立つわけで、ここを崩してしまうならば、神の前に行かされていくイスラエルという姿が失われていきかねない。後のイスラエルは、このような姿勢をどんどん失い、それぞれの力次第というふうになっていく。神の民としての姿勢が失われていってしまったのは、単に偶像礼拝の類だけではなく、経済面や家族制度も含めて、その全体において、神の前に行かされているとの理解を基盤としたものであり続けるかどうかが、鍵となっていくのだ。

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民数記 36:1-9

 この話は民数記27章に出てきた事柄と関係している。27章では、男女の区別なく、その氏族・家族にちゃんと相続地を残すべきだという決定が下っていた。それに対して、相続した娘たちが他の部族の人の結婚した場合に、その相続地が他部族に移ってしまうことに、異議が出されたのである。そして結論は再び、同じ趣旨で、相続地はあくまでもその部族に留められるべきことが指示されている。これらの箇所の意図は、単なる男女同権の話ではなくて、神が割り当てられたものは、その人々にこそ留まるべきという論である。このような基本線が明確にされていったのは重要なことであるし、人々がこのような感覚に関心を持ち、真剣に問うていたことは、この時代のイスラエルの姿勢がそれなりにまっとうなものであったことを示す光景と言える。

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民数記 35:29-34

 贖い金で対応を変えてはならないと命じられている。罰すべきものは罰するのであり、そしてまた、逃れの町で守るべき者は、しっかりと守り抜くのである。贖い金という言い方は聞こえが良いけれど、つまりは賄賂を渡し、裏から手を回して、自分に有利に事を運ぼうとするということである。せっかく逃れの町に入った者を、金を渡して町の外に出させて復讐する。結局そこには正義も何もなくなってしまい、ただこの世的な力の有無によって物事が動かされるだけのことになってしまう。神は正義の方であり、人々を公平に扱われる方であるからこそ、このような行動に対しては強く、厳しく「否」と言われる。

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民数記 35:26-28

 加害者は無条件で保護されるのではない。その町から出ることはできない。もし、この規定に背いて外出するならば、報復されても仕方がないとされている。故意ではなくても、死に至らしめた罪は重いのだ。大祭司交代の時には恩赦のようなことになるけれど、はたして自分の寿命とどちらが先か。辛抱する年月は様々であっていわゆる公平の問題としては扱われていない。すべてを主に委ねるのだ。御手にある者として、あるいはその町で寿命を迎え、あるいは早い時期にふるさとに帰れる。復讐してはいけない、という教えを神が語られるのも、神にまかせよ、という理由のゆえである。

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民数記 35:24-25

 逃れの町が効果を発揮するためには、その町の住民が加害者と遺族との間に立ち、遺族の怒りと悲しみ、苦悩を受け止めてあげることが必要だ。神はここで遺族側に対して、「故意ではないから我慢しろ」とは言わず、町の人々がその重みを代わりに受け止めよ、と告げている。神の前に生きることは、決して自分一人の頑張り、意志の力で達成できるものではなく、周りの人々に支えられてこそである。この規定の精神が今日の社会にも実現するならば、様々な悲劇と痛みがどれほど軽減されるだろうかと思う。なお、容易な役目ではないからこそ、これらの町はすべてレビ人の町とされている。神の期待はとても大きいのだ。

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民数記 35:9-28

 逃れの町と呼ばれる制度が定められている。これは故意ではなく人の命を奪ってしまった者について、指定された町に逃げ込めば、報復を願う被害者親族の手から守られるというものだ。いのちにはいのちを、という原則があったので、故意の殺人ではなくても遺族は報復の権利を有するのが当時の常だった。でも、意図してのものかどうかの違いは大きいわけで、だから神はこのような特殊な方式を設けられたのである。正義の神と呼ばれる方であるのだ。この町は全部で6つ、イスラエル全体に均等に設置されることになっていた。

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民数記 35:1-8

 レビ族はまとまった相続地を割り当てられなかった。彼らには民全体の礼拝を支える役目が託されていたからで、諸部族の間にまんべんなく広がっている必要があったのだ。レビ族もまた、それぞれに農耕はしているのであって、祭司とのように専念しているわけではないが、彼らはまさに民に仕える者であったことになる。ただ、レビ族がこういう形の相続地になったのは、役目からの必要だけではない。かつて金の子牛事件の時、レビ族は同胞を鎮めるために剣を振るった。御心にかなう必要なことではあったが、同族に手をかけたということで他部族との間にはすっきりしないものがあったのだ。かつて神はアロンに、祭司一族は相続地を持たず、神ご自身がそのかわりとなると約束されたが(民数18:20)、レビ族に対しても守り支えるという約束をしてくださっている。

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民数記 34:16-29

 各部族の指導者が定められている。この日、初めて指名されたのではなく、すでに部族の長であった人々が確認されたのだと思われる。モーセという民族全体を始動する特別な存在がいなくなるので、部族ごとにしっかりとした責任を持たせようという意図だろう。士師記に入ると、カナン支配への動きも部族ごとに進められている様子が出てくる。本来は、こうやってそれぞれの自主性・主体性を大事にしつつ、かつ、皆が共に神の前に歩むのが筋であり、最適でもある。しかし残念ながら、人はこうして委ねられていくとすぐに我を中心とした歩みになりがちで、イスラエルも混乱に進んでしまう。それでも神は、危ないからやめておこうではなく、より良い理想形態の実現をどこまでも忍耐強く求め続けてくださっているのは、何ともありがたい。

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民数記 34:1-15

 イスラエルの領土が明示されている。かつてアブラハムは、ここをすべて与えるという神の約束は受け取ったけれど、実際に所有したのは墓に用いた土地だけであった。エジプトでは寄留者であり、そして放浪の身の上を経て、ついにという感がある。ただ、イスラエルが実際にこれだけの領域を支配したのはダビデ・ソロモンの繁栄期のみであり、後には分裂もあり、そしてアッシリア・バビロンに滅ぼされてもしまう。神がせっかく良きものを用意してくださっても、人はそれを受け取り損ね、あるいは自ら投げ捨ててしまうことが少なくない。豊かな祝福の約束・宣言を目の前にする時こそ、自戒したいものだ。

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