第二コリント

第二コリント 13:13

 祝祷でよく用いられている言葉だ。キリストの恵みは罪人のために犠牲を払ってまで実現してくださった救いを示す。神の愛は救いをもたらしてくださった慈愛であり、忍耐であり、そしてまた、今こうして生かされていることの、神の支えのすべて、こんなにまで深く守ってくださっている幸いだ。そして聖霊の交わりは、聖霊との結びつきのことではなくて、聖霊によって導かれる信仰者たち、神を慕い求める者たちの交わりと結びつき、共に歩むことである。それがつたない者に過ぎない私たちにとって、格別の助けであるのだから。この祈りを礼拝のたびごとに切望する。神の守りにあってこそ、私たちは歩み得るのだからこそ。いろんな祝祷の言葉はあって、それぞれに意義深いけれど、全体を包括するような祈りの言葉としては、これはとても豊かだ。

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第二コリント 13:11-12

 締めの言葉だ。コリント教会が分裂騒ぎをして、対立していたことを思い出す。それでは神の恵みも真意も悟り得ない。人が人と争い続けている限り、その心は神から引き離されてしまうのだ。残念ながら人は完全にはなれず、問題も続くだろう。でもせめて主にある者たちが、一つの心となって祈り、主の前に立ちたいと願うならば、そこから事は動き始める。共にいよ、との教えは聖書の中に繰り返し響いているのだ。今、あなたは一人か、それとも共に神の前に立っているか。

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第二コリント 13:7-10

 厳しい言葉を何度も投げつけながらも、パウロの真意はコリント教会の幸いである。そのためならばどんな犠牲も払うぞと語るのは、ちょうと親が子に対して持つ思いに類似する。そしてコリント教会は確かにパウロの子どものような存在だ。聖書には、この後のコリント教会がどう応じたのかについては何も語られていない。だが、パウロの思いを読んできた者としては、そしてまた神ご自身の思いを知らされている者としては、何とか是非、と願わずにはいられない。このコリント教会は2000年前の話だ。でも今の私たちが、今ここで切に願い、関わるべき相手がいるはずだ。その祈りを大切に深め続けたい。第二コリントは私たちの内にそのような心をともしてくれる。神ご自身の心がそこにあるからこそ。

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第二コリント 13:5-6

 自らの確かさをはっきりとさせていくためには、自分の状態に満足しているだけでは足りない。他の人が神の前にどう評価されているのかをちゃんと受け止め、その幸いを認めていく者であってこそ、その歩みは確固たる者になり得る。自分のことだけでなく他の人も顧みよ、との教えは、人々のために尽くせということを言うものだけれど、その人々を神の前に正しく認めていくことも欠かせない。さもないと、神の御心と価値観の真実を悟らないままに、ただ自己満足で終わってしまい兼ねないのだから。

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第二コリント 13:3-4

 聖書の言う強さと弱さは、この世の感覚とずいぶん違う。キリストの十字架は、人の目から見ると敗北に感じられるかもしれず、弟子たちだってそう思っていたのでもあり、でも、この犠牲こそが人類を救う絶対的な力になっていることを思うと、弱いと見えているところに働く神の圧倒的な力ということを、もっともっと知りたいものだと思う。それは私たちが真に強く生きるための鍵であるから。

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第二コリント 13:1-2

 1節は何も、三度目に訪ねる際に複数の証人を連れて行くという話ではない。複数ということには重みがあるのだという、当時の文化が背景となっての表現である。今の私たちが、三度目に訪ねたら何か特別な意味になるかどうかは何とも言えない。ただ、パウロがコリントのことをどれほど必死に思い、何とかして回復をと願っていることはよく分かるだろう。切に、切に、そうだからこそ「容赦はしない」という強い言葉も伴う。どうでもいい相手ではなくて、是が非でも、と願っているからだ。今日の私たちの人間関係は浅く、薄く・・・。スタイルとしてはそれでもいい。でも、そこに込められていく心は、相手を思うがゆえに熱く燃えているのかどうか。神は私たちに向けてそうしてくださった。

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第二コリント 12:19-21

 コリント教会は以前とは違って大きく進展したと見られていた。この第二コリントはその前提で書かれている。だからこそパウロは期待と不安とを込めて、この手紙を、時に厳しく、時に和やかに書いている。何の心配もいらないと全面的に安堵できるとしたらどんなに良いことだろうか。そのためには、覚悟を決めて断固として臨まねばならない。それがパウロの心境だ。これはまさに、隣人を愛し、自分自身のように尽くす姿であろう。キリストはそれを足を洗うことで示してくださったが、パウロはその御心を自分の置かれているところで実践している。きっと、誰にでも、その人のなすべきことがあるはずだ。

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第二コリント 12:14

 この説の終わりに出てくる親子関係の話は、条文的に読んでしまってはならないものだ。これは親が子に対して言うかもしれない言葉であるけれど、子が親に対して言える言葉ではない。辞書や百科事典、法律条文ならいざ知らず、言葉というものは発せられた状況においてこそ真意が明らかになるものだから、自分の都合の良いように利用してはいけない。そういうあり方が争いを生み、対立を増し加えるものとなる。

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第二コリント 12:14-18

 何だか、再び混迷が戻ってきているようだ。当時の手紙は書くだけでも大変だったから、時間をかけて書いている可能性がある。その間に何か新たな情報が入ったのだろうか。コリントの人々が抱いている心に不安を覚えているように見える。パウロはこういう場合に厳しくも語るのだが、でも、最終的にはできることと言えば、ただひたすら相手を思い、神に祈り願うことだけとも言える。パウロの言葉も、人々の間違いを断罪するよりも、切々と訴え、神の前に立つことを指し示しているようだ。

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第二コリント 12:11-13

 聖書は神の言葉であるが、神はその時々の人々の生の言葉を用いてその御心を伝えておられるのだと、こういう箇所を読むと改めて思う。普通に読めばこれはつまりパウロの愚痴でもあり、理解してくれないコリント教会に対するうめきか訴えか。でも、あれだけ邪険にされ、傷つけられたコリントの人々に対して、パウロがそれほどまでに愛情を注ぐ姿は、つまり、神が罪深い人々を切望されていることを思い出させてくれる。人は神のような心にはなれないけれど、隣人を愛することと向き合っていくならば、その片鱗くらいは体験できるだろう。そうしたら、神の愛がどれほどとてつもないかを、さらに痛感するだろうが。

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