エペソ

エペソ 6:23-24

 手紙の終わりは、いつものように祝福を祈る言葉である。愛という要素が強調されている。朽ちぬ愛、という表現は聖書の中でもここだけである。これが神による愛の話ならば、まあなじみ深いものだが、ここでは人が神を愛する時のことについての話なので、なおさら注目できる。人自身がそんな確かなものは持ち得ないことは、皆、よく承知していることだからだ。それでもなお、朽ちぬ愛、と言われるのは、そこまでせずにはいられないほどに、神がしっかりと握りしめてくださるからこそ、であろう。神が事を動かし、人がそれに応じていく。この手紙が語り続けている道筋でもある。

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エペソ 6:21-22

 手紙だから、当時の事情が時折、顔を出す。おかげで私たちは、これらの教えが単なる机上の話ではなくて、実際の歩みの中にあったことを見ることができる。ここではテキコという人物がパウロのもとからエペソに派遣されて、両者の様子を伝え合う役目を果たしていたことが書かれている。信仰とは、正しい教えが届けられるだけではなく、お互いを思い合い、励まし合い、慰め合い、愛し合う関係が組み立てられていってこそ、しっかりと根付いていくのだ。4:16を読み直したい。

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エペソ 6:20

 ここで改めて、パウロが獄中にいることが告げられている。そんなことはすっかり忘れてしまうほどに力強い呼びかけがなされてきたのだが、現実にはパウロは捕らえられている。そのことは各地のクリスチャンたちにとって戸惑いであり、落胆でもあったろうが、こうして手紙を書き送りながら、パウロは人々を励まし続けている。事態は決して楽ではないけれど、信仰を生き抜くことこそが勇気と活気をもたらす礎となり得るのだ。

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エペソ 6:19

 パウロ自身も戦いの最中である。獄中という意味でも、宣教の生涯という意味でも。だからパウロは人々に、自分のために祈ってほしいと願っている。そうしてもらうことが自分自身の戦いにとって欠かせない力であるからであり、そしてまた、エペソの人々にとっても豊かな力になるからだ。しかも願っていることは、他の人に福音の幸いを届けることについて。ということは、この類の祈りは三者の幸いを願うものとなるのだ。

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エペソ 6:18

 こういった戦いを成り立たせるものは、神への祈りであると告げられている。呪文の類とは違うので、祈りそのものの力ではなく、神が応えてくださることによる力である。だからこれは、自分の願い事を語るだけではなくて、他の人々のために祈ることも大事な要素となっていく。この祈りは、この戦いが自分一人のものではないことをも思い出させてくれる。私たちは、神のもとにあって、他の信仰者たちと共に歩み、共に戦い、共に前進するのだ。そういう仲間なしに、信仰は立ち得ない。

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エペソ 6:17

 ようやく攻撃のための道具が登場する。それは神の言葉である。物事を実現するための手段は様々あって、それこそ悪の指輪を使う方法もある。だが、私たちが用いるのは神の言葉である。聖句を呪文のように唱えるのではなくて、神の言葉に教えられ、導かれ、どうあるべきかを、この言葉にこそ沿って進んでいく。そういう生き方こそが、悪魔に対する最も強力な攻撃であるのだ。悪魔を倒すことではなくて、人が神の前を確かに歩むことこそが、この戦いの勝敗を決するものとなる。

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エペソ 6:17

 かぶとは身を守ると共に、自らの存在を指し示すものでもある。日本の戦国時代の武将はその顕著な例で、皆、風変わりな工夫を凝らしたかぶとを身につけて、自分の存在を戦場に示した。私たちの存在を成り立たせるのは、ただ神の救いである。自分の努力でも功績でもなく、神が恩恵として与えてくださった救いを受けていることこそが、私たちの誇りであり、喜びであり、基盤である。私たちが最も大事にしていることは、信じていることよりも、救われていること、である。

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エペソ 6:16

 大楯は、射かけて来る矢を防ぐためのものだ。一連の武具の中では、はっきりと敵の攻撃が言及されているものである。では、どうすれば守られていくのか。それは信仰によってだとある。私たちの信じる力とか、信念の強さということではない。そんなものはあっさり射貫かれてしまう。信仰、つまり、神に頼り、神に守ってもらってこそ、である。私たちがなすべきことは多々ある。だが、私たち自身が守られるかどうかは、ひたすら、神に頼るのみなのだ。

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エペソ 6:15

 足にはくものは、より良く歩いたり、走ったりできるためのものだ。戦いに向かう際に、足に重しをつける人はいない。とは言え、ここでは軽快であるための心得が語られているのではなく、平和の福音が鍵だと告げられている。ローマ10:15を思い起こすのだが、神の祝福を人々に届けるための行程こそが、私たちの歩みを確かなものにする、何よりの力であるのだ。それは決して妨げなく進めるということではない。妨害はあるだろうし、悪路もあるだろう。でも、良いことの知らせを伝える者の足は、必ず前に進んでいくのだ。

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エペソ 6:14

 次は「正義の胸当て」である。胸当ては身を守るためのものだ。大事な心臓を一突きされたら、どんなに身体を鍛えていても助からない。そのためには正義が必要だと告げられている。正義とは、単に正しいことではない。これは他の人の幸いを守るために奮闘することを意味する。その人を悪から守り、その人が良きものを手にするためにこそ戦う。そういう意識を基本的な思いとしている時こそ、自らもまた守られていくことになる。人を愛することは、この信仰にとって最も基本的な内容なのだから。

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