ヨシュア記

ヨシュア記 24:33

 ヨシュアと共に歩んできた大祭司である。ヨシュアはおもに政治の類に関することをリードしていたので、日常的な信仰面のリードは大祭司がしていたはずである。モーセのこともよく知っていた二人が亡くなったことは、出エジプトからの一連の歩みが終わりを告げたことを示す。このことが、新たな進展につながっていけば良かったのだが。人はいずれは死ぬ。代替わりは避けられない。そこでどのように移っていくのかは、大きなことなのだ。

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ヨシュア記 24:32

 この出来事は、創世記50:25にあるヨセフの言葉を受けたものである。よくぞここまでそのことを覚えていたものだと感心するが、それもまた、神が自分たちをエジプトから連れ上ってくださったのだという喜びと感謝、神への信仰を表すことの一つであったのだ。過去のことは、決してただ過去の過ぎ去ったこと、というものではない。今の私たちが前を向いて、将来に向かって生きていくためにこそ、過去のこと、何よりも神との関わりのことは、大事な踏み台となっていくのである。

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ヨシュア記 24:31

 この言葉は、ヨシュア記としてはごく自然な表現だろう。でも、士師記を知っている者としては、この言葉の深刻さを思わずにはいられない。ヨシュアと同世代の人々が生きている間は大丈夫だったのだ。彼らは誓った言葉を果たしていた。だが、その次の世代は神を忘れ始めてしまった。そのことは、あまりにも悲しい出来事である。そしてまた、私たち自身も深く心しなければならないことである。自分たちだけではない。後の人々もまた神の祝福の内にあるようにという願いと取り組み。それがどうしても欠かせないのである。ヒゼキヤの言葉を思い出す(第二列王20:19)。

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ヨシュア記 24:29-30

 ヨシュアはこの時、イスラエル最年長である。モーセよりは10歳若い。でも、あの40年も含めて、よく奮闘してきた。なすべき業をなし終えた、という思いは、後にパウロが語ったものと共通していたのではないか(第二テモテ4:6-7)。そんなふうにして生涯を閉じることができたら幸いである。長さではなく、業績云々でもなくて、神の前に歩んできたぞ、ということを何よりの幸いとして心に喜びながら、という点で。

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ヨシュア記 24:28

 指導者ヨシュアの最期を前にして、諸部族の代表者たちは共に集まって、この大切な確認をしてきた。ヨシュアはできるだけのことをした。それで、人々をそれぞれの領地に送り出している。ここから先は、それぞれがしっかりと生きていくしかないのだ。ただ、気になるのは後継者のことだ。モーセの後にはヨシュアが立てられた。でも、ヨシュアの後は明確ではない。それがこの後の混乱につながっているのか。いや、ネヘミヤたちの後は大祭司たちがちゃんと活躍した。もちろんこの時代も祭司たちはいたし、レビ人もいた。彼らの課題が士師記につながったのか。このあたりは改めて考えてみたいものだ。

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ヨシュア記 24:26-27

 記念碑というものが、このあたりの時期には何度も出てくる。もちろん聖書の言葉そのものが最も大切な礎であるが、それと共に神は様々な方法で人々に、この教えを思い出させ、自分たちの信仰を思い出させていこうとなさっている。ちゃんとわかっているから大丈夫、などと慢心せずに、そういう手はずを大事に用いていくことが、その人の歩みをより確かなものにしていくのだ。神が設けられた記念は、こういった碑の類もあるし、また、様々な祭りもまた、同様の意味合いを持っている。過越の祭りなど。クリスマスやイースターも、それ自体が特別な効能があるわけではないけれども、でも、大事な記念であり、私たちの信仰を育むものなのだ。

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ヨシュア記 24:19-28

 民の応答に対して、ヨシュアはかなり慎重な姿勢を示している。繰り返し警告を発し、あなたがたの決意は信頼できないというふうである。こんなにまで言われたらいやになってしまわないかと心配になるが、ヨシュアとしては民がちゃんと立つことのほうが大事と考えたのだろう。そして民はその願いに応えている。繰り返し、ヨシュアの問いかけに明確に返答している。大事なことであるほどに、繰り返し、というものは大切なのだろう。人は容易に忘れ去っていく存在であるからこそ。

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ヨシュア記 24:26-18

 この応答は力強い。確かに、ヨシュアの時代のイスラエル人は、その歴史の中でも最もよく神と共に歩んでいたのだと思う。彼らの語る内容も聖書の教えることと合致していて、彼らが神の呼びかけにちゃんと向き合っていることを感じさせる。神が祝し、導いてくださっているからこそ、神についていくのだ。もちろん、足りないところはあったことはすでに指摘されていた。それでも彼らは神と共に生きていこうと決意し、そのことを表明している。こういう姿勢は大切なのだ。だから受洗は勧められる。気分の問題ではなく、大事なこととして提示されている。

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ヨシュア記 24:15

 自分の立ち位置を語る時、「私と私の家は」とヨシュアは言った。当時は絶対的な家長制であったので、ヨシュアの意向は家族全体の意向、という背景もあるだろう。でも、それだけなら、わざわざ言及しなくても良いはずだ。むしろこれは、ヨシュアの願い、そして決意であろう。自分の大切にしている家族が、皆でまっすぐに神の前に生き、神と共に歩み、その祝福を享受していくのだ、と。現代はもっと個人主義的な世界になっているけれど、この願いと決意は決して変わりはしない。神の幸いを知る者として、自分の愛する者たちがこの祝福を手にしてくれるようにとの切なる願いを、私たちは片時も放しはしないのだ。

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ヨシュア記 24:14-15

 主なる神こそが自分たちを助け導いてくださっているのなら、その方を信頼し、付き従うことは当然の結論のはずだ。ヨシュアはそのつもりで語っているが、でも、人々の自発的な選択と決断を問いかけている。あなたはどうするのか、と。その際に、彼は自らの決断を表明して、その上で問いかけているのは意義深い。他の人に問うだけではなく、大事なことであるほどに、それはまず自分自身が問われ、そして、表明していく中でこそ、その問いかけは他の人にもしっかりと届いていくのだ。たとえ相手が応じなくても、あるいは迷い続けていたとしても、まずは自分の立ち位置をはっきりと示していくこと。それが良きものを作り上げていくための、始めて行くための礎となる。

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