士師記

士師記 21:25

 また、この言葉が出てきている。17:6や18:1,19:1も同類である。王の指導がなかった中で民は混乱しきっていたという意味だが、本来、イスラエルの王は神ご自身である。民がそれを認めず、従わなかったからこそ、この事態である。彼らはそれぞれに良かれと思って行動したのだろう。でも、その状況は悪化の一途を辿っていた。士師記は、人が神から離れた時にどうなるかを語る。それゆえ、読んでいてつらくなるほどの混迷が続いている。勇猛果敢な勇士たちの物語でもあるけれど、むしろそれは、読み手の側に嘆きとうめきをもたらす記録である。

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士師記 21:16-24

 ヤベシュ・ギルアデからの捕虜では人数が足りなかった。今度は、主を礼拝する場所だったシロで行われる祭に来た娘たちを奪えばいい、とする。祭がそういう機会として使われるのは古今東西にあるけれど、でもそれは神の民としては恥ずべきことであり(たとえば神は神殿娼婦の類を禁じられた)、しかもそれを神ご自身の目の前で行うのだと言う。22節の論理は、もはや弁解ですらない。ようするに、文句を言う奴は黙らせるから、というだけのこと。ベニヤミン部族消滅は免れたが、その手段はあまりにもひどすぎた。ただし、神はそのような中からでも再興を与えてくださるのであり、イスラエルの最初の王はこのベニヤミン部族の出身である。

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士師記 21:8-15

 ヤベシュ・ギルアデが戦いに参加しなかった理由は何も書かれていない。ベニヤミンに同情したのか、混乱にあきれたのか。イスラエルの論理からすれば、この戦いに参加しない者は民の一員とは認めない、ということになるだろうが、その是非について、彼らは神に伺いを立ててはいない。それに、ヤベシュ・ギルアデ攻撃の動機はベニヤミン消滅を避けるために結婚相手を欲したがゆえで、この町自体への憤慨が始まりとは言えない。だいたい、町を滅ぼして女たちを得るなど、その発想はあまりにもひどく、士師記もまたそういう姿にあきれかえっている様子である。

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士師記 21:5-7

 ベニヤミン部族消滅の危機が語られているのは、生き残りがわずかだったこともあるが、残っているのが男だけで、かつ、結婚を認めないとしたためだ。でも7節のような誓いは神の命令ではなく、律法の定めでもなく、ただ彼らの勝手な対処に過ぎない。11章のエフタを思い出す。マタイ5:33-も考えたい。イスラエルは自分たちの考えで自分たち自身を縛ってしまい、そして仲間の部族の消滅を嘆いている。神にこそ聞き従うのでない社会の混乱が痛ましく書き記されている。

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士師記 21:1-4

 戦いが落ち着いた時、ベニヤミン部族の大半が殺されて、残りがわずかになってしまっていた。20:47からすると600人の男たちしか残らなかったようにも見える。聖書がそう断言しているわけではないが、ともかくイスラエルの民はここに来て、やり過ぎたと後悔している。もし、ベニヤミンを絶滅させることが神の命令だったのなら、ここで悔いるのは御心に反する。だがこの場合はむしろ、神の指示ではなく「自分たちの目に正しいと見えること」を行った結果に愕然としているのだろう。いけにえを捧げているが、それは神への戦勝報告ではなく、一連の事態をイスラエル全体の罪として悔い改めているのでもなく、どうしていいかわからなくなっての神頼みだ。そこまで行ってもなお彼らは神の声に聞き従うのではなく自分たちの知恵で対処していこうとしている。

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士師記 20:36-48

 それで、戦いの結果は凄惨なものになった。ベニヤミン部族は徹底的に倒されてしまった。彼らだってもともとは、自分たちの人数が少ないことからしても、初戦に勝って和睦のつもりだったろう。でも事態はそれを許さず、彼らも慢心し、そして部族が消え去るところまでたたきつぶされてしまった。全イスラエルは、自分たちの同胞である部族を地上からあやうく消し去ってしまうところまで追い詰めてしまったのだ。戦いだから仕方がない、という説明はできるのかもしれない。でも、だとしたら戦うことは、理性的なものなどはあり得ず、まさに人類を滅ぼし尽くすほどのものでありえるということだ。士師記は明らかに、この事態を異様なものとして語っている。

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士師記 20:29-35

 伏兵を置くのはよくある戦術で、神への不信などではない。ただ、彼らが精一杯戦っていることもまた、神への忠節を示しているわけではない。ともかく、今度こそ負けられないという覚悟で全イスラエルは戦っており、たかが一部族、というような侮りはもはやない。そのような悲壮な覚悟が、この戦いを絶滅を意図するほどのものにしたのだとも言えるだろう。もはや同胞だからという余裕がなかったのだ。戦いの仕方としては正しいのだろう。でもそれが御心にかなう戦いであったのかどうか。旧約は明らかに、神の意図する戦いと、それ以外の戦いとに違った取り扱い方をしている。民は神を後ろ盾にしてはいたけれど、神の戦いを戦っていたとは言えない。

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士師記 20:28

 今のベニヤミンをそのままにしておくわけにはいかないことは、神ご自身としても厳しく考えておられたことのようだ。18,23,28節と神は繰り返しそのことを告げている。だが、結論は神の計画と同じでも、そこに向かう心も同じだとは限らない。そのことを指し示すかのようにイスラエルは負け続けるのだが、でもんれらは根本的な課題には気づいていない様子だ。民の思いはこの戦いにしか向けられず、ベニヤミンの悪にしか思い至っていない。ベニヤミンを放置するわけにはいかないので最後の戦いは勝っているが、それはイスラエルを肯定するしるしではないことを、彼らは気づくべきであったのだが。人はどうも、自分たちの思う結果が実現すると、自分は神に認められているというふうに考えがちである。事はそんなに単純ではない。

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士師記 20:17-28

 ここには、イスラエルの民が久々に神の前に出て、その御心を尋ね求めている姿が記されている。士師記はこの時代を総括して、「めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた」と語るのだが、ぎりぎりの状態の中で、人々はようやく、自分たちがもといた立ち位置を思い出したということか。もっとも、主への言及があってもなお、それで事態が改善されたとは言えないということは、士師記がこれまでも告げてきたことである。思えば、新約時代のユダヤは神のみを礼拝し、神を求める声を上げ続けていたけれど、でも、その信仰の有り様は間違っているとキリストは指摘なさっていた。神の名が出てくれば済むのではなく、真実に神にあって生きようとしているのかどうかが問われる。この時代のイスラエルはそうではなかったことが、この後の姿からも明らかになる。

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士師記 20:12-16

 全イスラエルは冷静な対処を意図したようで、ベニヤミン部族自身による加害者の処罰がなされれば打開の道はあると考えている。それはまずまず人間の判断としては全うだ。けれど、ベニヤミン族はこれに反発し、悪を行った身内をかくまうためにイスラエル全体と戦うことを選び取ってしまった。ベニヤミンには精鋭がいたので、当座は撃退できると考えたのだろう。戦意を失わせれば事は済むと思っていたのかもしれない。創世記49章でヤコブはベニヤミンを好戦的と語ったが、もともとこの部族はそういう性質があったのかもしれない。

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