ルツ記

ルツ記 4:18-22

 ユダの家系図が記されている。ペレツの父がユダであるが、これが全員を記したものかどうかはわかり得ない。それにしても、士師記と同じ時代、混乱していた時代に、このような良き出来事があるというのは、実に驚くべきことでもある。ただ、そこに見られる違いは、ルツ記の人々は、落ち穂拾いや買い戻しの権利のように、律法が定めた互いを支えるための仕組みをちゃんと受け継いでいたことがある。士師記は人が自分の思うとおりに生きていたことを告げていたが、ここの人々は完全ではないけれども、神の教えに基づいて生きようとして、それを社会の制度として大事にしていた。こういう姿勢こそが、混迷する世界の中でとても大きな礎となり得る。仕組みや制度をないがしろにしてはいけない。それは人を守り、社会を守る力にもなり得るのだ。マタイ5:18-19を読み直しておきたい。

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ルツ記 4:17

 ここにダビデの名前がある。古代イスラエル最大の王である。ルツはダビデの曾祖母に当たる。モアブ人である彼女が、イスラエルの王の曾祖母であるのだ。ルツ記はそれを決してマイナスには語っていない。民族が何であれ、神のもとに生き、神を慕い求め、神によって祝福されている人々は、確かに良きものを生み出していくのだという、ルツの存在はそういう印でもある。ヨハネ1:13の言葉もまた、合わせて読んでおきたい。

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ルツ記 4:13-17

 ボアズとルツの結婚がなり、二人には子どもが生まれた。ルツは亡くなった前の夫、ナオミの息子との間には子がいなかったが、今度は息子を抱くことになったのだ。人々はルツ以上にナオミの幸いを喜んでいる。彼女は全てを失ったのだが(1:20-21)、再びその幸いを手にしたのだ。孫の存在以上に、ルツの存在こそが幸いであったと語る言葉は、この出来事の全体を確かに物語るものになっている。あの日、ルツがナオミと共に行くと語ったそのことが、大きな幸いの糸口であったのだ。人の世界に多くの混乱があり、また悲劇もある。だが、もしも人々が神に寄り頼みつつ、互いに支え合って生きようとするなら、そこにはきっと良き道が開かれていく。ルツ記はそのことを語り告げている。

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ルツ記 4:11-12

 人々はボアズとルツの結婚を祝福してくれている。そこで出てきている女性たちの名前は、ちょっと特色のあるものだけれど、ベツレヘムという場所との関わりと考えれば、ごく当たり前の祝福と見ることもできる。なお、ラケルとレアはヤコブの妻たちで、イスラエル12部族を生んだ人々だ。そういう意味ではすばらしい存在とも言えるが、創世記は彼女たちの様子を必ずしも好意的には書いていない。タマルは本来、ユダ(ユダ部族の始まり)の息子の嫁であるが、夫が早世して、いろいろあって、結局、一つ世代をさかのぼって、ユダとの間に子を宿した人で、それが正統な家系になっている。それぞれの状況を良いとは言えないが、でも、そうやっていろいろある者たちを、それでも神は導いてくださり、その先に祝福を用意してくださるという実例でもある。タマルはマタイ1:3で救い主の系図にも載っている。

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ルツ記 4:7-12

 ボアズとしては大喜びである。これで権利上の障害はなくなった。ボアズとしてはルツと結婚し、両家を一つにしていくことを、何よりの幸いと考えたのだ。それはもう一人の親戚とは違い、ボアズの側に一族の問題がなかったからかもしれない。また、ボアズ自身の心持ちが、自分の名がどうかということよりも、ナオミとルツの幸いと、そして生まれてくる子にとっての幸いを大切に思うものがあったからでもあろう。家系図的にはボアズの家が残るのであるが、実質的にはまさに両家の合体である。

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ルツ記 4:4-6

 この人は積極的な返事をした。ナオミたちのことを助けたいという思いもあっただろうが、自分にも経済的な得があると判断したからだ。ただ、この制度はもともと、本来の家の復興を助けるためのものだ。ゆえに、未亡人と結婚し、そこに子どもが生まれたら、その子に元の家を継がせていくことになる。細かい仕組みは聖書には記されていないが、いわば、両家が合体するというイメージか。それでこの人はためらった。自分だけでなく、他の親族とか兄弟とかのことも考えたのだろう。ナオミの土地をもらい受けて、その分、彼女たちの暮らしの面倒を見るくらいは快く受け止めるつもりだったが、子孫の行く末も左右されるのには困惑したのだ。この制度は強制ではないので、本人が難色を示せばそれだけのことである。(ナオミの土地を買った人、今回は売り渡すことになる人には拒否権はない。)

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ルツ記 4:3-6

 ボアズとしては、自分がナオミ一家の世話をしたいと考えているのだが、優先権が他の人にある以上は、それをごまかしたりはしていない。それは、事が単にルツとの結婚ということだけではなく、買い戻しの権利が関わっているからだ。買い戻しの権利とは、誰かが自分の土地を売り払った場合、本人や近い親戚には、それを優先的に買い戻す権利があるという制度で(金額的にも一般の売買より有利になる)、家が没落して路頭に迷うことを防ぎ、また、せめて一族の中に土地を留めさせることで社会が混乱することを防ぐ仕組みである。だから、経済的に余裕さえあれば、親族としてはその権利を行使したいと願うのは当然だ。

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ルツ記 4:1-6

 当時の社会制度がよく見える場面だ。大事な交渉をする際に、町の広場が用いられている。門のあたりは人通りも多く、公明正大に行うのには適している。隠れたところで行うのは、何か人に知られたくないことをする場合だ。誰かの過ちを忠告してあげるような時は、その人のために二人だけで話すとしても、ほとんどの場合は公にしているのがふさわしい。また、長老たちに同席してもらっているのも、事を正式なものとするためだ。ボアズはルツたちとのことを、しっかり責任をもって対処しようとしている。事は決して個人的な話で済ませられるものではなく、また、一時的な同情心だけの話でもないのだ。こういう姿勢が価値あるものを生み出していく。

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ルツ記 3:14-18

 ナオミの考えたとおりにはならなかった。人の思惑は底の浅いものに過ぎない。でも、その願いが打ち砕かれたわけではない。はたしてどうなるのか。それはボアズ自身の思いだけでも決まらないことであって、だから、ただもう神の御手に委ね、御心がなりますようにと祈るしかない。人は思いを抱き、願いを持つ。そのことは意義あることで、価値あることだ。無である必要はない。でも、その先は主が最善をなしてくださることを願うようであってこそ、真に確かな道筋は見えてくると言えるだろう。

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ルツ記 3:12-13

 両者の思いは一致したが、事は本人たちの思いだけでは済まない。これはナオミの夫の相続地を取り戻して再興させることだから、社会全体の秩序にも関わることだった。ゆえに、より優先的にその役目を果たすべき立場の人がいたので(よりナオミ一家に近い血縁)、その人の意向を問う必要があった。このあたりは、家の制度から解放された現代日本ではまだるっしく感じられるだろうが、社会によってはこういうことを基軸として物事が動いていくということはいくらでもありえて、それを人々が異に感じない場合もあるのだ。そういうあり方も尊重しつつ、また、各自に与えられている道筋の広がりを期待する、というのが、神の前に生きる上では大事なことか。

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