ヘブル書

ヘブル書 13:25

 定番の挨拶であるけれど、ヘブル書を読んできた者にとっては、しみじみと切望する願いではないか。神の恵みがあること、それしか、事態に対抗できるものはない。でも、この約束、恵みの約束は、遙かな昔からずっと語られ、保証されてきたものであり、多くの人々が経験済みであり、それこそ雲のように多くの証人がいるのであり、かならず届くものである。その恵みを信じ、神の御業を信じ、神の確かさを信じて、そうして、歩んでいきたい。著者の切なる願いであり、読者の切なる願いであり、そして、今の私たちもまた同様に、である。慰めと励ましは、確かに救い主、キリストにこそある。

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ヘブル書 13:24

 イタリアから人々が来ている、とある。イタリア、つまりはローマのことだろう。帝国の中心地であるが、辺境のユダヤから見れば、ローマは地の彼方に当たる。すべての道はローマに通じる、という言葉があるが、ということは、人が道を旅して、その行き着くところ、地の果てはローマであるということもできる。「地の果てまで私の証人となる」と語られているのは、地球の裏側までという意味合いでもあろうが、当時の社会に当てはめれば、まずは道の果て、途切れるところ、ローマでもある。そして、キリストの言葉の通りに、福音は確かに地の果てまで届いている。どうにもならないと諦めつつある人々に対して、そうではないと語るのだ。あの命令はちゃんと実現して行っているのだと、そういう意味合いにも受け止められる。そして、今の私たちは、極東のこの地まで福音が届いていることを知っている。様々な課題はあるけれど、でも、神の言葉は実現して行っているのだということを、ちゃんと見ておきたい。神はご自分の言葉を成就なさる方なのだ。

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ヘブル書 13:23

 テモテの名前が出てくるので、この著者はあの時代の人であることがよく分かる。パウロはすでに殉教しているのだろうか。もっとも、釈放とあるので、テモテの場合は殉教に至るところまでの弾圧ではなく、一時的な拘束の部類であったということか。ともかく、彼が自由を取り戻すことは、苦境の中で勇気を失いつつあった人々にとっては、大きな励ましになったことだろう。そう。絶望だけではないのだ。希望はある。希望は実現する。「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」という教えは、感謝の大切さというだけではなく、人々が崩れ落ちたりしないで歩み進むために必要なよりどころでもあるのだ。

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ヘブル書 13:22

 手短と言える分量かどうかは疑問もあるけれど、でも著者の思いからすれば、まだまだ書き足りないということだ。それはそうだと思う。この手紙は教説を伝えるためのものではなく、苦境にある人々を励ますためのものである。そばにいなくて、言葉しか伝えられないのであれば、いくらでも、どこまででも、語り続けたいと思うだろう。一晩中、いや、何日でも、それが人々のために励ましになり得るならば。聖書がこんなにも分厚いのは、神の思いの強さ、深さの表れでもあると思う。むろん、言葉数が多ければいいというものではない。短い言葉で伝えられるものもあるはずで、そのあたりの吟味は必要だ。でも最も大切なことは、相手を思う心、そして、神の確かさへの信頼、それが届けば、何よりである。「届け、この思い」、聖書を読むたびに、そういう心がひしひしと感じられる。

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ヘブル書 13:20-21

 つまるところ、頼る相手はキリストである。救い主であるキリストがいてくださるからこそ、様々な問題を抱えていてもなお、私たちは前を向いて歩むことができる。迫害があっても、時に自分の信仰心に自信を失ったとしても、それでもなお、いやいや大丈夫だと自らを叱咤激励しつつ、歩むことができる。単なる空元気だったら意味はない。自分をごまかしてみても、そんなものでは役に立たない。でも、キリストだけは真実であるからこそ、どうにもならない事態の中でもなお、大丈夫と言える。それだけの方であることが、この書ではずっと語られてきたのだ。時に、幼子は、自分自身の理屈よりも、親の懐に抱かれていることの安心感を優先する。だからこそ嵐の中でも眠ることができる。そして、それが正解なのだ。幼子のように神を信頼することが必要だ。それがなければ、人の歩みは頓挫してしまうだろう。

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ヘブル書 13:18-19

 祈って欲しい、と著者が読者に呼びかけ、求めるのは、パウロの書簡でもよく見られるものだ。確かに信仰の中身を伝えるという意味では先人の意義は大きい。初心者に迎合するようにして大事な真理を曖昧にするのは全く愚かな話だ。でも、そうやって毅然と立つためには、常識と思われてきたことも含めて、よくよく確かめ直していかねばと思う。そういう取り組みは決して容易ではない。だからこそ、祈って欲しいとの願いが、ますます強くなっていくのである。

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ヘブル書 13:15-17

 賛美はつまり、キリストの約束は真実なのだ、期待できるのだという確信と宣言、告白である。そのことをきちんと語り続けることもまた、大事な励ましである。善を行うことは、自分で道を閉ざしてしまうようなことにならないように、むしろ積極的に切り開いていくために、大いに重視すべき点である。いい加減に生きていて、それで人々に福音の意義を知ってもらおうというのは、ずいぶん虫のいい話である。それから、見習える相手がいることの幸いである。教えを聞いて、その教えを実行するのは良いことだ。ただ、それではやっていけない者も多いのが人間だ。前を歩いてくれる人、引っ張ってくれる人があることは、実に力強いことなのである。大風の日に、巨漢が自分の前を歩き、背中に隠れていていい、と告げてくれるならば、ずいぶんと安心、ではないか。

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ヘブル書 13:14

 後に来ようとしている都を求めている、というのは、死後のふわふわ浮いた世界のことではない。キリストの再臨に伴って予定されている、確かな世界のことだ。神はこの世界を新たにするのだと宣言されているのだし、だとすれば、今の世に様々な混乱があっても、絶望はしない。苦労はあって、だからため息はつくとしても、時にうめいたり、不平も言うかもしれないけれど、それでも、絶望はしない。神がおられる限り、そして、神が絶望していない限り(見放していない限り、と言うべきか)、事態は決して終わりではない。この希望を見失ってしまったら、事は動かないのである。この一節が語ることは、大事な、大事な話である。

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ヘブル書 13:10-13

 再び、旧約の祭壇でのことが取り上げられている。ヘブル人クリスチャンが直面していたのはユダヤ人勢力だから、この点はよくよく語り続ける必要があるのだ。ここでは、外に出される、という点が挙げられていて、大事な犠牲を払う動物は外に出されるし、だからこそキリストも外に出されたのだし、だとすれば、自分たちがユダヤ社会から疎外されることがあったとしても何も驚くことはない、のだ。世界全体が神のもとに立ち返ることで、安心して信仰を生きられるようにとの願いはとても大切であるし、皆の希求することでもあるけれど、でも、この世においてはなかなかそうはならない。であれば、今の様々なつらさは、決してこの信仰が間違っているからではないのだと、そういう慰めと励ましが、改めてまた語られている。こういう支えは、苦悩する時にこそ、ぜひとも必要なものだ。

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ヘブル書 13:9

 食物規定に関連して、何かの攻撃があって、それに反論できないまま防戦一方、であったようだ。そのことは9:10でも取り上げられていたように、何らかの節制や無用のものを避けることは、それはそれで悪いことではない。ただし、それはあくまでも一時的な手助けのため。永遠のことについては、むしろ食物規定を意識し過ぎることで、かえって本質的な課題を見落としてしまうのだ。回りから激しく言われていたとしても、それでもくじけるわけにはいかない。私たちが見ているのはキリストであり、この方は何も変わらずにおられるのであって、だとしたら、私たちばかりが早々に崩れてしまう、というわけにはいかない。それでは、頼りになる助けがあるのに、勝手に白旗を揚げているようなもの。かつてイスラエルは、そう言うことを何度もしていたのだが。とんでもないことだ、という呼びかけを、周囲一円になしていこうとするのである。

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