第一サムエル

第一サムエル 31:8-13

 サウルやヨナタンの遺体がさらし者にされたことは、当時の戦争としてはありがちなことだ。それはペリシテ側のイスラエルに対する圧倒的な力を示すものでもあった。一時は強大な抵抗力に見えたイスラエルが、何のことはない、やはりただの弱小民族に過ぎないぞと言い放っているのだ。そんな嘲りに抵抗できないイスラエルであるが、それゆえにこそ、ヤベシュ・ギルアデの人々が決死隊を組んでサウルたちの遺体を取り戻したのは実に勇気のあることだ。それには理由がある。かつてヤベシュ・ギルアデはアモン人に攻められて滅亡の危機に瀕した。その時、彼らを救い出してくれたのが若き日の、王として任命されたばかりのサウルである。彼らはその恩義を忘れなかったのだ。そんなふうに人々に慕われ、敬愛されていたサウルである。もし彼が信仰面でも良き王であったなら、どれほど偉大な存在になり得ただろうかとも思う。第一サムエルの最後は、この心温まる出来事で締めくくられている。

|

第一サムエル 31:2

 あれだけ高く評価されていたヨナタンであるが、その最期はあっけなく語られているのみである。戦争は、有名な人も、偉大な人も、どんな人でも同じようにひねり潰していく。そこにあるのは、ただの一つの命。いや、時には土塊か何かのように投げ捨てられ、ゴミでも踏みつぶすかのようにして、人は失われていく。もし、ヨナタンが生きていたら、その後のダビデの治世にとってどれほど大きな力になっただろうかと思うのだが、そんな期待も夢も、すべては吹き飛ばされてしまうのである。ダビデの嘆きは第二サムエル1章に詳しく載っている。それにしてもヨナタンは、ダビデのことであれだけ衝突した父サウルと、最後の最後まで共に戦い、共に歩み続けたのでもある。そういう所もまた、ヨナタンという人の素敵さを物語るものだ。

|

第一サムエル 31:1-7

 サウルという人は、信仰的には深刻な問題を抱えていた人だが、イスラエルの王としては、人間的にはよく頑張った人である。結局彼はイスラエルのために戦い続け、そして、自らの命をも犠牲にしたのだ。戦局が厳しくなっても、彼は逃げたりはしない。イスラエルの民も、そんなサウルを信頼し続けて、共に戦い続けている。サウルは皆にとっての希望の星だったのだ。だから、彼が死んだのを見て、民は散り散りに逃げ去っている。羊飼いのいない羊のように、という言い方があるが、意味合いは別だけれど、同類のものを見るようでもある。彼が自死したことを取り沙汰する場合もあるが、これはそういう話とは別の次元のものだと言って良いと思う。

|

第一サムエル 31:1-7

 第一サムエルは、大混乱にあったイスラエルにサムエルという指導者が登場して信仰的な落ち着きを取り戻し、サウルという王が立てられて社会的な安泰が築かれ始めていったことが語られてきた。だが、その記録は最初の王サウルが戦死してイスラエルがペリシテに大敗を喫したことで終わっている。サウル自身の問題もあるのだが、イスラエルの復興、進展がまだまだ道半ば、いや、ほんの少し上がり始めた程度にすぎないことを如実に示すものだ。士師記の混乱からの真の回復は、まだまだ遠い。そして、神が長い年月をかけて必死に立てあげてくださっても、人はそれをあっという間に崩してしまうのだということも、サムエル記・列王記には何度も語られていくことになる。それは人の罪深き姿の縮図とも言える。

|

第一サムエル 30:26-31

 神からの賜物であるという意識は、仲間内だけでなく、他の人々にもその幸いを分かち合うということに進んでいる。ダビデがイスラエルにしっかり心を置いていることの表れでもあり、後々のためにも友好関係を維持していきたいということでもあろう。これらの町々はおそらく、逃亡中のダビデに対して、好意的な態度を示してくれていたところではないかと思う。サウル王の権威には逆らえなくても、裏で助けの手を伸ばしてくれるということはあり得ることだ。そういう表には出ない支えによってダビデは食料その他の面で、生きながらえることができていたのでもある。もっとも、この穏やかな、心楽しい雰囲気は次の31章の悲惨な様子とあまりにも対照的だ。ダビデはイスラエルの悲嘆から遠く離れたところにいたのである。それが後にダビデを慟哭させる。

|

第一サムエル 30:21-25

 よこしまな者たち、と言われているが、戦わなかった者、戦えなかった者には報酬はないと考えるのは、世の中的には一般的なことだと思う。だが、ダビデは全く別の理解を示している。つまり、もともとからしてこの勝利と分捕り物は神が与えてくださったもの。自分たちの力ではなく、神の助けによってこそ、と。だからこそ、その幸いは苦労した者も、そうではない者も、一緒に分かち合えば良いと言うのだ。人は自分のしたこと、自分の払った犠牲にいつも着目する。でもその一切が神から賜ったものであることを思い出すならば、姿勢は大きく変わってくるはずだ。それとも、自分自身もまた神の助けを拒み、自分にできることだけ限定の日々を歩みたいということなのだろうか。それこそ大きな損失を招くことになるのだが。

|

第一サムエル 30:16-20

 ダビデたちは無事に家族や財産を取り戻した。圧勝であった。戦闘に慣れているダビデの一行と、抵抗力のない村を襲撃する略奪隊とでは熟練度に違いがあったこともあるだろう。人数的にはアマレクの方がはるかに多かったようだが、居場所を見つけることができたならば、これ以上失うもののないダビデたちでもあり、その勢いを止められるものは何もない、ということだろう。何一つ失われなかった、という点に、神の守りを強く感じる。それに彼らは、アマレクが持っていた財産も手に入れて、以前よりもはるかに豊かになっているのだ。厳しい試練であり、全ては終わったと思いたくなるような状況だったが、でも、神の助けがあれば事態は大きく変わるのだ。

|

第一サムエル 30:11-15

 偶然の出会いと言うこともできるだろうが、聖書はやはりここに、神の助けがあったという意味合いを込めて記録しているのだと思う。アマレクの略奪隊を追いかけると言っても、どこにいるのかわかるはずもなく、この人物のおかげで彼らの根城を見出すことができたのだ。最初からアマレクの関係者と思って助けたのか、そういう意識も含まれていたにしても、聖書の書き方からすると、ダビデたちが彼を助けたので、ダビデたちも良い情報を手にすることができた、というふうであるのを思う。極限状態で走り続けていた彼らが、でも、この人に恩義を施したことが意味を持つ。やはり隣人は愛するべきなのだ。

|

第一サムエル 30:7-10

 ここに来て、ダビデは彼の本領を発揮する。そう、神に頼り、決して諦めないという生き方を取り戻すのである。まずは神の御心を尋ね求める。現代はこういうやり方はしないけれど、当時としてはこれが神に聞き従う際の最も一般的な行動であったのだ。そして神が指示された時には、状況はとても困難であったけれども、ダビデも、そしてその部下たちも、一緒に駆け出している。途中で1/3もの人数が減ったけれど、それすらも彼らの足を留めることはなかった。久々に、ダビデ自身も自らの立つべき場所を見出しているという思いだったに違いない。

|

第一サムエル 30:1-6

 14節の言い方からすると、たまたまツィケラグも襲われたというふうにも見えるが、この襲撃にはやはり、27章にあるダビデのアマレク襲撃への報復という意味合いがあるように考えられる。ケレテ人やユダ、カレブなどを襲うのと、ペリシテの町とされていたはずのツィケラグを襲うのとでは意味合いが違う。ペリシテには報復の力があるのだ。それにしても、サウルの手から逃れてペリシテに来た彼らだが、もう大丈夫と思っていた場所で、全てを失ってしまったのである。結局、ペリシテ退避は何の意味もなかった。部下たちがダビデに恨みを抱いたのも無理はない。やることなすこと裏目に出る、という言い方があるが、ダビデの状態にぴったりである。聖書はダビデの行動をあからさまに批判、非難はしていない。だが、その結果がどうなっていくのかを語ることで、彼の選択が誤りであったことを指し示している。人はよく、これはどうにも仕方がないと言うのだけれど、いやいや、そこにはとうてい、確かな良きものが待っているということはないのだ。

|

より以前の記事一覧