ルカ

ルカ 20:27-40

 サドカイ派は社会的地位の高い人々が多く、現状に対する否定感が弱かったためだろうが、今の生涯を重視して、死後のことはあまり意識しなかったとされている。ここで言う復活とは、死んだ者は、後に神の定めた時が来ると、皆、肉体をもってよみがえる時が来るのだ、というもので、ラザロのような生き返りとは別の話だ。パリサイ人を初めとして、当時のユダヤ人大半はこのことを信じていたとされる。旧約前半はこの認識が薄いとも言われるが、預言書などには復活を前提とする教えも多々見られるし、もちろんキリストご自身は復活を明確に肯定されている。この部分は、そういう議論の中での対話であることを、まず踏まえて読んでいくことが必要だろう。

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ルカ 20:25

 イエスは、神かカイザルかという二者択ではないのだと告げている。もともと、すべての権威は神のもとにあり、なのだから、カイザルと関わることが神への否定になるはずもない。このやりとりの背景には、当時のユダヤ人の意識も関わっているのだが、そうそいう対立的意識で見るのは御心とは違うのだ。そして、大事なこととしては、単にどう見るかの話ではなく、どう関わるのかということ、そこでそれぞれかどう自らの責任を果たすのかということが問われるのだと、イエスは告げている。議論だけでなく、事はやはり、人がどう生きて、どう行動するかにおいて、強く問われていくことを覚えておきたい。

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ルカ 20:19-26

 20節の解説は、他の福音書よりも分かりやすい。ヨハネが書いた当時、誤解がみられていたからだろうか。ともかく、だとすれば、間者たちの言い分はあまり注目する価値がない。イエスの答えは、受け答え自体としての鋭さがある。間者は、カイザルに税金を払うことが神に対する冒涜では、と言うが、だとしたら、日頃、カイザルの銘が記されている貨幣を用いていることも冒涜ということになるわけで、一切の貨幣経済には関わらない覚悟があれば別としても、自分に都合の良いところは大目に見て、税のように払いたくないものについてはその論理で正当化しようというのは、あまりにも都合の良すぎる話であろうということだ。これでは間者側としてもぐうの音も出ない。ただ、こういうふうに神の言葉を自分の都合で理由しようとする人は、いつでもある。自戒すべきことだ。

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ルカ 20:17-18

 キリストという礎石は、人々の救いを実現するための土台である。だから、この石が存在することで神に逆らう人々が滅ぼされてしまう、ということではない。むしろこれは、人々の思い、そして考え方、当時の人々が思い込んでいた神への熱心さの姿など、そういったものが粉みじんに、ということを指摘するものとして受け止めるのが妥当だ。イエスはしばしば、当時のユダヤ社会が抱いていた信仰態勢というものを、強く否定なさっていた。人間的には熱心だったけれど、その方向性は神から人々を遠ざけるものであったからである。そういう厳しさから、私たち自身も陥っている過ちの可能性を、ちゃんと考えておくべきだろう。

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ルカ 20:15-18

 話の意図が絞られていたからこそ、ぶどう園の主人は農夫たちを滅ぼすのだ、という話が出てくる。実際には、神はそういう扱いをしてはいない。つまり、御子を殺されたので民を滅ぼす、ということはしていない。御子の死は、人々を助けるためのものである。むしろ、御子を送らなければ、その結末はこの世界の滅亡だったろうが。だからここでは、あくまでも一般論として、もし、神の呼びかけを拒んでしまうならば、その結末はどうなっても当然か、ということを問い質しているものである。私たちはイエスによる救いを知らされているが、人の本来の事態が何であるのかも、ちゃんと知っておく必要がある。

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ルカ 20:13-15

 旧約では、神はここまではしていない。これは明らかに、御子であるイエス自身のことを意識しての語りである。イエスは明確に、ユダヤ社会の意図を見ておられたということである。もっともここでは、贖いのための犠牲という意味合いには触れていない。むろんイエスはすでにその意味合いを語っているのだが、ここの話題はあくまでも人々が神の呼びかけに耳を貸そうとしていないということだから、話の趣旨を混乱させないためにも、十字架の持つより本質的な意味合いは割愛している。

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ルカ 20:9-18

 ここには旧約時代の預言者が扱われていることを、人々はすぐに察知したはずだ。神はイスラエルの民を復帰させるために預言者を送り、呼びかけ続けたのだが、でも人々は彼ら預言者を殺し、神の呼びかけを拒み続けた。新約当時のユダヤ人は神に対して熱心だったと言われているが、でも、預言者を拒み続けた経緯を認めててはおらず、悔い改めてもいない。どれほど熱心でも、もし、神ご自身の呼びかけを受け止めて、そこに応答することを志すのでないとしたら、その熱心は、少なくとも主なる神の前では意味をなさない。神のことばであるイエスの呼びかけが拒まれたのは、必然でもある。

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ルカ 20:1-8

 それにしても、バプテスマのヨハネについては、当時のユダヤ社会ではおおよそ肯定されていて、それこそパリサイ人などでも高く評価していた人たちはいた。加えて言えば、彼はすでに死んでおり、政治的な面倒を起こすこともない。真っ直ぐに向き合いやすい相手であったのだ。それなのにこの人々は答えを回避した。人は、十分に応え得るときですら、そこから逃げようとする場合がある。それではどうにもならないことを、深く考えさせられる。

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ルカ 20:1-8

 イエスのこういう受け答えは、あるいは、まともな答えを回避しているように見えるかもしれない。だが、まともに応じても、それを真剣に受け止めようとはせず、付け入る口実を探すばかりだった人々への対応としては妥当、ということが一つ。この類のことについては何度もすでに語っておられたということが一つ。それから、バプテスマのヨハネを引き合いに出すことで、彼らが自分としても真剣に受け答えする機会を与えようとしたということもある。もし彼らがヨハネについて、まっすぐに向き合おうとするなら、イエス自身のことについても、その意味を見出すことはできただろうに。あのニコデモのように、である。

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ルカ 19:47-48

 こういう説明書きは、あの日の出来事の意味合いを知るのに、良き示唆となる。夜中に急襲し、夜の内に裁判で決着をつけようとしたのは、時間を置くと民衆の反応が不安だったということがあったということになる。とすれば、あれだけバタバタの、整合性もない強引さは、なるべくしてなったということか。言い換えれば、当時のユダヤ社会においてすら、イエスへの処刑判決は妥当性を持ってはいなかったということか。このことは、後に人々がキリスト教信仰に入っていく上では、大きな意味を持つ。キリストの死は罪の身代わりだから、ともかく命を提供すれば良いのではなくて、徹底的に善であり、何一つやましさのない状態、それも世の人々がそうだと納得するような正しさ、清さということは、これが神から人に向けられた呼びかけであることを思うと、とても重要な要素であったことになる。

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