ルカ

ルカ 24:50-53

 使徒の働きに詳しく述べられている部分を、簡単に記している。この部分がイエスの昇天に関することであるのは、新改訳2017の訳し方のほうがわかりやすい。ともかく、「まだまだ続くよ、次回をお楽しみに」というような意味合いを感じる。なお、昇天の場所はオリーブ山であるから、ベタニヤまで送り届けてくれたわけではなくて、そっちの方向性、ということであろう。これも、2017の訳では分かりやすい。

|

ルカ 24:49

 ルカ福音書は、使徒の働きへと続いていく。この言葉は、その伏線とも言える。ここには詳しいことは書かれていないが、証人だと言っても、すぐさま飛び出していけという話ではないと、念を押されている。幸いにも弟子たちは、突進性のペテロも、イエスの言葉をちゃんと守って、聖霊の働きかけを受けるまでは動かなかった。直前の失敗で、自分自身の力に自信を失っていたということもあるだろう。人々の熱意は大事だし、価値あることだが、最も必要なことは、神ご自身の導きがあることであって、そこを軽視してしまったら、何も始まりはしないのだ。

|

ルカ 24:47-48

 弟子たちに求められているのは、彼らの見聞きしたイエスのことを、彼らが指し示された福音を、他の人々にも届けることである。最初の弟子はごくわずかである。それで終わりで良いはずがない。これは全人類のために用意された神の道筋なのだ。だから、証人であれと言う。しょうにん、とパソコンで打つと、大概、商人が先に来る。商人たちは、もうけのためならば世界のどこまででも行くと言う。出掛けるだけがすべてではないけれど、各自それぞれに、自分のいる場所で、証人であり続けたいものだ。

|

ルカ 24:44-49

 イエスは、ご自分の経緯について語る際に、明確に、それを旧約の言葉と重ね合わせておられる。福音書の中で、何度もイエスは、一切は前から予告されていたこと、神のご計画、それも、秘められた計画ではなくて、指し示され続けてきたことなのだと、そう告げられている。だとすれば、今も私たちは、この弟子たちと同様に、聖書を通して、キリストを知り、その御業の意味を、また、意義を知ることができる。実に幸いなことである。2000年の時を経て、とく言うけれど、イエスご自身、地上での歩みに先立つ多くの時を経て、神が事を進めてこられていることを、強く意識され、そのことを明示されているのだ。

|

ルカ 24:36-43

 これほどの歓喜はなかなかあるものではない。絶望にいた弟子たちが、いくもの知らせによって希望を抱き始め、そしてついに、である。それにしても、朝に女性たちからの知らせを受けたとき、あんなにも邪険に扱ったことについて、彼らの反省はなかったのだろうか。あったと信じたいのだが。戸惑いすぎた弟子たちは幽霊だと思ったそうだ。それで、ちゃんと真実を見せ切れていなかったと、イエスはなおいっそう踏み込んで、事の真実を彼らに示している。それに、神の思いに中では、真の存在はやはり、肉体を伴うのだ。それがなくても済むのは、神ご自身だけであり、さもなければ派生的な存在たちだけだ。人は魂を持ち、肉体を持つ。だからこそ、よみがえられた主も、ちゃんとした肉体を持たれるのだ。夢でも幻でもない、生きた働いておられる主である。

|

ルカ 24:33-35

 すぐさま戻ったということは、もともとやむを得ない事情での旅ではなかったということだ。幸い、距離にして11kmくらいだから、走ればそれほどの時間はかからない。おかげで、この二人も、イエスが弟子たちみんなの前に姿を現してくださった時に、一緒にそれを体験することができた。やはり、一緒にいなければ、である。離れてしまっていては、どうにもならない。それに、互いの間で共有されていく情報もまた、貴重なものである。ちなみに、イエスがペテロのところに現れたのは、やはりあの否認に関係するし、彼をきちんと立たせて弟子たちをリードさせる必要があったから、であろう。ペテロはその期待に十分に応えていくことになる。

|

ルカ 24:30-32

 これを聖餐式の意義として語る必要性はないが、弟子たちが、何度も繰り返されてきたイエスとの食事を思い出したのは間違いない。教えに納得することだけでなく、共に歩み、共に語り合い、共に喜び、共に泣くことは、真実を見出すために必要なことだ。信仰は理念ではなく、教説でもなく、生活として扱われているのも、とても大切な観点である。彼らの目が開かれたので、それ以上はそこに留まる必要性がない。イエスは神としての特別な力を発揮して、他の場所へと急いだのだ。そして彼らも、この食事という以前に、すでに御言葉によって心が開かれていたことを、思わせられている。神の恵みは、すでに彼らに届いていたのである。

|

ルカ 24:28-29

 先へ行きそうな、というのは、他の弟子たちにも会う必要があるから、ということのはずだ。この二人とは数時間、一緒に過ごし、語るべきことは伝えた。後は本人たちがどう受け止め、どう応ずるか、であるのだから、いつまでも一緒にいる必要性はない。そばに行って語りかけるべき相手はたくさんいるのだ。幸いにも、この時、彼らの心はすでに動かされていて、だからこそイエスを引き留めた。ご自分のほうから「私だ」とは言わないことにしていた様子のイエスとしては、ほころんでくる顔を押し殺していただろう。無理に願う、そのくらいの強い思いで求めることを、神は心から喜ばれるのだ。(マタイ7:7)

|

ルカ 24:25-27

 イエスのなさり方に注目しよう。ご自分が復活したことを弟子たちに示すために、イエスは奇跡をしたわけではないし、彼らの心を神の力で揺さぶったわけでもない。イエスがしたのは、旧約に記されている神の言葉を指し示し、その意味を解説することによって、なるほど確かに復活は神の御心であり、当然にそうなるべきものなのだ、と彼らが理解するようになること、であった。これは神の御子でなくても、人にも同類のことはできる。でもそれこそが、最も意義のある業であり、教えであることを、そして確かな信仰につながるものであることを、イエスは明らかにしておられるのだ。これはルカ16:29-31とも合致する。

|

ルカ 24:18-24

 この部分は、論理的には表現が混乱しているようにも見える。論理的に言えばこうなるはずだ。イエスのことをずっと期待してついていったのだが、残念なことに人々はそれに反対して、イエスを殺してしまった。期待を掛けてきたのに、それが潰えてしまい残念だ。そう思っていたのだが、またまた奇妙なことが伝えられていて、イエスの復活したという話が出てきている。でも、自分たちとしてはまだ納得していなくて、ガセネタだと考えているのだが、と。それなら25節のイエスの言葉にもつながる。もうちょっとすっきりと語れば良いのにと思うが、動転している彼らの様子が、言葉遣いにも現れていたことをルカはそのまま記録しようとした、のだろう。

|

より以前の記事一覧