ルカ

ルカ 23:55-56

 十字架と埋葬には、女性たちの存在が重要な意味を持つ。男性陣は隠れてしまったけれど、女性たちは最後まで残り続け、見守っている。不安はあっただろうが、さすがに当局も、彼女たちを脅すようなことはせず、それもあって、近くで見守り続けることができたのだろう。彼女たちにも、事の次第はわかっていない。神の計画もわかっていない。そして、何も対抗できない自分たちであることも痛感している。ただ見守るだけ、それ以上の何者でもないのだが、どうやら彼女たちは、自分に何ができるか、という考えではなくて、ひたすら、主のそばに居続けたい、見ていたいという、それだけの思いに動かされていたようだ。人はしばしば、物事の意味を考え、意義があるかどうかと考えるのだが、より必要なことは、ただひたすら共にいる、ということである場合も、決して少なくないのだ。

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ルカ 23:53

 ヨセフが持っていた墓は、まだ未使用だったようだ。その場所が刑場の近くにあったので、そこに葬っている。十字架は嘲りであったが、復活への備えとしても、きちんと埋葬することは必要で、ヨセフの申し出はイエスの御業にとっても、とても大事なものとなったのである。このことはまた、イザヤ53:9にもつながる。聖書では本来、富む者とは神に祝福された者、という趣旨が強いので、処刑されたにもかかわらず立派な人々の一員として葬られているという不思議な光景が、イザヤには語られている。その通りになっている様子は、後にこのことを思い返した人々にとって、イエスの存在と、その十字架の意味をしっかり見定めるのに大いに有意義なものとなったはずだ。

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ルカ 23:51

 同意しなかった、というのは、だとすれば彼は、イエスの裁判を欠席した、ということだろう。満場一致であったと記されているのだから。ルカには、ヨセフが弟子であることを隠していた話は出てこないが、それを考えると、出席して反対票を投じる覚悟はなく、でも、まさか賛成もできず、という苦悩が見え隠れするようである。人は、そう易々と信念通りの行動ができるわけではない。やろうとして失敗したペテロの例もある。だとすれば、せめても愚かな行動に加担しないで済むように身を避けることも、大事な知恵の一つだ。そうすれば、後でまた、行動できる時もあるのだから。

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ルカ 23:50-53

 この時点で、ヨセフはむろん、イエスの復活などはわかっていないし、十字架の意味も悟ってはいない。だから、この行動はイエスを慕いつつもこれまで行動できなかった自分を悔いて、せめてもとの思いから出たものと言える。立場が悪くなるのは必定で、しかも、助けてくれる救い主もいなくなって、という、とても厳しい状況だったが、この人は強い心の持ち主だったのだろう。それなら、以前からちゃんと表明していれば、とも言えるのだが・・・。幸いなことに、この先が見えない行動が、でもすぐに、光り輝く日々へと進むことができた。彼自身はそれを期待していたわけではないだろうが、神は確かに、こういう行動をちゃんと見ていてくださる、ということだ。

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ルカ 23:49

 これは、イエスの弟子であった人々のことである。「しかし」というのは、人々は立ち去ったけれども、この人たちは残り続けた、という趣旨だろう。安息日の始まりが近づいていたから、人々が立ち去るのはごく自然な行動だが、彼らはちゃんと葬るところまでは留まり続けたのだ。イエスは十字架で死んだが、でも、弟子たちはそれでイエスに失望したり、これまでの思いは間違いだったと考えてはいないようである。むろん、理解はできていない。彼らは救い主がなぜ死ぬのか、全く理解していない。でも、理解はできなくても、彼らが抱いてきたイエスへの確信、この方は間違いがない、頼れる相手であるという確信は、彼らをなお留まらせている。神のことについて理解できないことは多々ある。そこで問われるのは、信頼できる方なのかどうか、だろう。「神を理解する」ことが求められているのではなく、「神を分析する」のでもなく、「神を信じる」ことが問われているのだから。

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ルカ 23:48

 この群衆は、49節からすると、もともとの弟子たちではない、一般の人々のことだと見るのが妥当だ。とすれば、彼らは積極的かどうかはともかく、イエスを罵倒する側にいたということである。でも、そんな人々がイエスの一連の姿を見ていて、百人隊長同様に、この扱いは間違っていたのではないか、という戸惑いを覚えるようになったということになる。これもまた、すぐさま信仰に至ったわけではないだろう。でも、こういった人々が50日後に、弟子たちによって語られたイエスの真実に、強い関心を抱くようになったのは、十分にありえることである。社会に対して、イエスのあるいは神の確かさを示していくことは大切だ。そうすれば人々は、そこにある何かに関心を持ち、ちゃんと見極めようとするだろう。もし、何の関心も抱かず、通り過ぎてしまったら、それでは福音そのものの意義を考えてみる機会すら持ち得ないことになってしまう。それではあまりにも悲しい。

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ルカ 23:47

 ルカは明らかに、この百人隊長の言葉を、彼がイエスを高く評価したという趣旨で書き留めている。百人隊長はユダヤ側でも、イエスの弟子でもないので、客観的な観察者と言える。それも、この十字架の場面しか知らない。そのような人が、こういう感想を述べたということは、十字架でのイエスの姿は、回りにいる人々に対して強い印象をもたらしたのだということがよくわかる。外面的に言えば、ぼろ雑巾のように投げ捨てられている姿でしかないのだが、群衆も罵倒したくなるようなものなのだが、それでもなお、この方の特別さは隠しきれなかったということだこの百人隊長は、このことだけでイエスを信仰するようになったわけではないだろう。でも、後に、このイエスについて語られていくことを聞いた彼が、真剣な思いでそのことを考えるようになったことは想像に難くない。イエスは確かに、ただの人として死に至られた。でも、そこになお、ただの人、ではないその姿が、表されていたということである。

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ルカ 23:44-45

 この暗闇は、父なる神が御子から顔をそむけられたことの現れである。御心のとおりに歩んでおられる方から目をそらすのは奇妙だが、それこそ、御子が人類の罪を背負っておられることの何よりの印だ。神を捨て、神の助けを拒む人類は、神から遠ざけられ、神の助けを失うべきものである。その結末は壊滅である。だが、その痛みを、苦しみを御子ご自身が引き受けてくださったことによって、神が自ら受け止めてくださったことによって、事態は一変した。文字通り、主は命の道を開いてくださったのである。だから、この暗闇は重要だ。それは神のご計画そのものを指し示すものである。

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ルカ 23:43

 パラダイスの意味は何だろう。という疑問が出てくるのは、いわゆる新天新地、神の御国は、「今日」ではなく、定められた日が来たら、であるからだ。とすれば、すぐさま「天国」に行けるわけではあるまいし、それともイエスは特別な抜け道を用意されたのか、というふうに。だが、聖書の言葉を信じ、主の言葉を信じるということは、言われた言葉の表面的な意味合いだけ、そのまま適用してしまうことではあるまい。主は彼に全面的な受け止めを約束された。彼に絶対の安心と確信を与えようとされた。だとすれば、以降の手順がどうこうという話ではなくて、一足飛びに結論を語るというのは、全く不思議なことではない。ここにあるのは、彼を愛おしんでおられる主の言葉であるのだ。

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ルカ 23:43

 イエスが語られた意味合いを限定的に捕らえようとする人もある。極悪人が受け止められて良いのか、という憤りもあるだろう。だが、神ご自身の特別な恩恵がなければ、人は誰でも同じことだというのが、聖書の語るところである。だからこそ、この人、ぎりぎりのところで神に受け止めてもらえたこの人の姿は、すべての人にとっての希望である。これで良いわけではない。彼は徹底的に間違った日々を過ごしてきた。それは全く認められないものだ。でも、神の恩恵は人の限界を大きく越えていく。それこそが、私たちすべての者にとっての希望である。

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