列王記

第一列王記 22:29-33

 アハブは、自分のやりたいようにやる、ということで拒絶したものの、ミカヤの言葉を気にしてはいたようだ。それで、ヨシャパテに王様らしい格好をさせておいて、自分は隠れていようとしている。こういう見え見えのことについても素直に従うあたり、ヨシャパテは何とも愚かなものだ。彼は邪悪ではないけれど、ユダの王として民を導くにはあまりにもうかつすぎる。真実を見極めることのできる心を与えてくださいと、人はやはり祈り願うべきなのだ。

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第一列王記 22:24-28

 ゼデキヤの怒りについては先日述べたとおりで、彼は自分の能力に自信があったのだろうが、神が語られるかどうかは、彼の資質とは別の話である。そして王はミカヤの言葉を拒絶した。大事な、最後の警告でもあったはずなのに、それを拒んだ。もはや、そこには救出の道はない。自分でそれを閉じてしまったのである。

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第一列王記 22:17-23

 悪いことを預言するからまずいのだとしたら、もともとから神に尋ねる意味がない。それに加えてミカヤは驚くべきことを告げている。ゼデキヤたちは本当に聞いたつもりでいた、神は彼らに告げたのだというのだ。ただし、偽りを、である。それも、アハブ王を滅ぼすために無謀な戦いをさせようと神が仕組んだことであると言う。真実にこの通りの事があったのか、それとも、こういうふうに告げることによって、アハブに思いとどまらせようとしたのか(21:27では悔い改めた)。もし、神の意図がアハブを確実に仕留めることだったら裏を開かす必要性はないから、この言葉の意図は後者ではないか(実際に起こった対話だとしても)と考えられる。あいにく、この時のアハブはそんな温情にも耳を貸そうとはしなかったのだが。

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第一列王記 22:13-16

 使いの者の要請は、ようするに、神が何を語るかではなくて、つまりは真実は何かではなくて、その人が何をどう語るかがすべて、という概念だ。人を越えて働いておられる真実な神がおられることなど考えてもいない。これを人間に置き換えるなら、Aさんが何を語ったのかと尋ねられて、都合の良いように勝手に話を造り替えたら偽り者であるのに、神に対してはそれでもかまわないとするあたりに、神への真剣さがないことがはっきり示されている。ミカヤの15節の言葉は、態度言葉遣いなどから誰にでもわかるような嘲笑的なものだったのだろう。内容的にはそういう答えを期待していた王ですら、馬鹿にされたと怒るほどのものだったわけである。

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第一列王記 22:11-12

 このゼデキヤは何者か。6節で招集された一人とすればバアルの預言者だろう。ただ、「主」の名を口にしているし、24節ではミカヤの指摘に腹を立てているので、本気で自分は「主」の預言を受け取ったと考えているようでもある。多神教的な観念からすれば、何らかの神に仕える資質を持っていれば、他の神々の託宣も受け取ることができると考えても不思議ではない。ゼデキヤは自分にはいかなる神の声でも聞くことができる力があると考えていたのだろう。でも、聖書が語る本来の預言者とは、霊的な素養の有無ではなくて、もっと単純に、神がその人に語りかけて下さるかどうか、にかかっている。神が主体か、人の側の能力の問題か、ここにも主との関わりの意味合いを取り違えている人類の実例がある。

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第一列王記 22:5-9

 ヨシャパテはごく自然に、神の御心を尋ね求める必要性を語っている。このあたり、彼が信仰の中に育まれてきたのだなということが、とてもよく分かる。彼にとって、神と関わりつつ生きるのは、ごく自然なあり方だったのだ。でもイスラエル側は、すでにそういう常識を忘れている。400人の預言者は、バアルその他の神々に仕えていた人々だろう。自分に都合の良いことを語ってもらい、それで安堵するのであれば、神の言葉を尋ね求める意味が何もない。悪いことばかり預言する、ので拒否するのだったら、預言者など不要だ。具合が悪くて医者に言ったのに、たいしたことはない、という言葉しか語らないとしたら、行く意味がないのとも似ている。さすがにヨシャパテは困惑している。それは当たり前、であることを、ちゃんと覚えておきたい。

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第一列王記 22:1-4

 ヨシャパテは信仰的に良い王として分類される。だが、極悪とされるアハブと付き合っている。それはヨシャパテの家庭に混乱をもたらすが、その話は改めて、である。彼は自分が神を信じていれば問題はないと考えていたのかもしれないが、事態は彼が思うよりも深刻だった。信仰の異なる相手とは関わるな、という意味ではない。この信仰は排他性でもないし、純粋培養でもない。だが、自らが捕らわれてしまう危険性には常に留意すべきだし、離れているときよりもなおいっそう、相手の行動、自分の行動の是非について、個別具体的に確かめ続ける必要がある。

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第一列王記 21:27-29

 珍しいことに、と言っては何だけれど、アハブがへりくだった。赦しを請い、神の前にひざまずいたのだ。エリヤを通して告げられた神の言葉が現実になることを悟ったからだ。かろうじて彼は、神の言葉の真実というものに気づき得たということだろう。そして神の赦し、いや、猶予が与えられている。アハブなど赦す必要なし、と人は思うのだが、聖書は一貫して、どれほどひどくても、もし、立ち返るなら、いや、一時的にでも本気で赦しを願うなら、神はその求めに答えてくださるのだと言い続けている。ニネベの町も同様だった。アハブの子の時代に、と言っているが、もし、その子がへりくだるなら、再びの先延ばしは可能である。神の赦しは尽きる所がない。だが、求めなければ、請わなければ、事態は深刻なまま、である。

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第一列王記 21:15-26

 神からの鋭い言葉が、エリヤを通してアハブに告げられている。彼自身がしたことではなくても、事は明らかにアハブの責任の中にあることだ。もちろんイゼベルも責められる。アハブ自身の問題性と共に、隣で誘発したイゼベルの存在は、北イスラエル全体を大きく壊してしまっていた。この行為は個人としての罪という意味でも言語道断だが、国や社会を壊すという意味でも、決して許容され得ないものである。イゼベルを恐れていたエリヤの葛藤は、もはやここにはない。毅然とした預言者の姿があるのみだ。彼自身の頑張りというよりも、それほどにひどく、そして、神の激しい御心があったということでもある。

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第一列王記 21:5-14

 イゼベルは、もともと主なる神への恐れは皆無で、夫のアハブを越えて、事態を好きなように動かしている。まったくの偽りと強引さで、彼女は土地を手に入れた。しかも、ナボテの生命すら奪って、である。アハブが最初に願ったときは、ナボテが了承すればまっとうなことで済んだのだが、全面的に邪悪な行為になりさがってしまった。人の思いが悪に転落する事態を痛感する。十戒の、隣人のものをほしがってはならない、は重大な教えである。

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